Home >今月のハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第17話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part17                                  Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第16話 ホーネット時代の到来
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第15話 Midway Magicとファントム時代の終焉
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第14話 再び平和に
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第13話(Rev.B) 日本へ 
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第12話(Rev.C) ヴェトナム戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第11話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-3)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第10話(Rev.C) ヴェトナム戦争(中編-2)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第9話 ヴェトナム戦争(中編-1)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第8話 ヴェトナム戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第1話)誕生

第17話 湾岸戦争とミッドウェイの退役

空母ミッドウェイの定期修理と火災の修理でCVW-5とミッドウェイ空母戦闘群(Battle Group Alpha)が日本に留まっていた間に、彼らの任務範囲にあるペルシャ湾岸地域ではイラクとクウェートの争いが日増しに高まっていた。イラン-イラク戦争で多額の戦時債務を抱えたイラクの経済事情の悪化を改善するには、原油輸出に頼らざるを得ないイラクであったが、協定範囲外の大量採掘で原油価格を下落させているのがクウェートとUAE(アラブ首長国連邦)で、しかもクウェートはイラクの油田から盗掘までしているというのがイラクの主張であった。こうした事態収拾のためエジプトやPLOが調停に乗り出したが、当のクウェートがまじめに対応しなかったこともあり、イラクのサダム・フセイン大統領は、1990年7月27日には共和国防衛隊をクウェートと国境に移動させた。そうした情報は米国を通じてアラブ周辺諸国に流されたが、イラクのクウェート侵攻はないと周辺国は判断した。

そうしたアラブ側の判断を覆すべく、戦車350両、兵力12万人を擁する共和国防衛隊の機甲師団が、1990年8月2日午前2時(現地時間)にクウェートへの侵攻を開始した。虚を突かれたクウェートの防衛陣は、イラクの精鋭、共和国防衛隊の前に総崩れとなり、侵攻から6時間後にはクウェート全土がイラク軍の手に落ちた。これに対する国連の反応も速く、緊急安全保障理事会が開催されイラクのクウェートからの即時撤退を求める決議が採択された。また8月6日にはイラクとの全面禁輸の経済制裁措置が発表された。イラクのクウェート侵攻で原油価格が高騰したものの、禁輸措置によりイラクへの経済効果は無に帰した。



クウェートに侵攻したイラク共和国防衛隊のT-72主力戦車の一群
出典:US DoD Photo Archive

一方、サウジアラビアをはじめとするアラビア半島の産油国を更なるイラクの侵攻から守るという名目から、米国のジョージ H.W.ブッシュ大統領は、サウジアラビアのファハド国王の認可を得て、米軍をサウジアラビアへ急派する「砂漠の盾作戦」(Operation Desert Shield)を8月6日に発動した。イラク侵攻を予測し展開作戦の準備を進めていた米軍は、まず同日、ノースカロライナ州フォート・ブラッグの米陸軍第82空挺部隊とその機材のサウジアラビアへの移動を開始した。さらに翌8月7日にはヴァージニア州ラングレイ空軍基地から第1戦術戦闘航空団(1st TFW)のF-15C/D 48機をサウジアラビアに向け発進させた。これらのF-15C/Dは、ワシントンANGのKC-135Eから空中給油支援を受け、サウジアラビアのダーラン(Dhahran)へ約14時間から17時間かけ、ノンストップで飛行するという離れ業をやってのけた。



フロリダ州エグリン空軍基地からサウジアラビアのTabuk航空基地に到着した58thTFS/33rdTFWのF-15D
出典:US DoD Photo Archive

米海軍の動きはさらに早く、イラクのクウェート侵攻時にインド洋や地中海に展開していた空母戦闘群とその航空団を民間人の救助やクウェート脱出支援、そして対イラクの経済封鎖支援のため、急遽中東へ移動させた。まず8月5日にCVW-14を載せインド洋に展開中のCV-62 “USS Independence”(空母インディペンデンス)がオマーン湾に到着した。また8月7日には、CVW-7を載せ地中海に展開していたCVN-69 “USS Dwight D. Eisenhower”(原子力空母アイゼンハワー)とその空母戦闘群がスエズ運河を通過し、翌8日には紅海に到着した。さらに米海軍は、8月15日にCVW-3を載せたCV-67 “USS John F. Kennedy”(空母 ケネディ)とその空母戦闘群をヴァージニア州のノーフォークから中東へと出発させる。



CVW-14を載せ、ペルシャ湾へと向かうCV-62 空母インディペンデンス
出典: US Navy Official Photo

8月8日(現地時間)、イラクはクウェートを19番目の県として併合することを発表したが、国連安保理では翌8月9日、イラクによるクウェート併合を無効とする、resolution 662が承認された。そしてこの日、米空軍はB-52爆撃機の編隊をインド洋に面したディエゴ・ガルシアへ展開する作戦を開始する。一方、英仏両政府も、産油国への防衛部隊の派遣を発表し、英国は同日、トルネード F. Mk 3要撃機とジャギュア GR. Mk 1A攻撃機の各1飛行隊を出発させた。英国の湾岸地域へのこの軍事作戦は”Operation Granby”と名付けられた。そしてトルネードF. Mk 3 12機が、8月10日に、サウジアラビアのダーランに、ジャギュア攻撃機12機が8月11日にオマーンのツムレイト(Thumrait)にそれぞれ到着した。さらにこの日、エジプト軍の兵士500名がサウジアラビアに上陸している。

8月12日になると、セイモア・ジョンソン空軍基地から第4戦術戦闘航空団(4th TFW)所属のF-15Eが、サウジアラビアの空軍基地に展開を始め、8月13日にはフランス海軍の空母クレマンソーが即応軍の対戦車ヘリコプター42機を載せ、紅海に向けて出港した。さらにベルギーとオランダが海上部隊の派遣に合意し、イラクを包囲する多国籍軍の陣形が徐々に整い始めた。そしてこの頃になると1日平均120機の戦術輸送機が輸送物資を載せ、サウジアラビアやその周辺国に到着するようになった。




サウジアラビアへ展開した4th TFWのF-15E ストライク・イーグル
出典:US DoD Photo Archive


8月15日には米海兵隊の支援艦が30日間の戦闘物資を積載してサウジアラビアに到着、その後も航空機の修理部品などのストックを搭載した支援艦が、そして海兵隊の陸上部隊が空軍のC-5やC-141で続々と到着する。さらには8月24日、ビュウフォート海兵航空基地からVMFA-333のF/A-18Aが到着する等、海兵隊の航空部隊も着々と数を増やしていった。

8月17日になるとイラクのフセイン大統領は、「米国がイラクを空爆するようなことになれば、クウェートで人質となった欧米の子女を目標となりそうな軍事施設や政府施設などへ監禁し、「人間の盾」に利用すると発表。これに対し、国連安保理は、イラク、クウェート内の外国人を即時解放するように決議した。

そして8月21日、米空軍の最新兵器である第37戦術戦闘航空団/第415戦術戦闘飛行隊(415th TFS/37th TFW)と第416戦術戦闘飛行隊(416th TFS/37th TFW)のステルス戦闘機F-117A が、衆目の見つめる中サウジアラビアのハミース・ムシャイト航空基地(Khamis Mushyt AB)に到着する。米国は手にある最新兵器をすべて投入する勢いで、サウジアラビアへの展開を進めた。



サウジアラビアのハミース・ムシャイト航空基地に整列した37thTFWのF-117Aステルス戦闘機
出典:US DoD Photo Archive

8月25日には、CV-60 “USS Saratoga”(空母サラトガ)と戦艦ウィスコンシンが紅海に到着し、先に紅海に展開していた原子力空母アイゼンハワーと交代した。そして9月15日には空母ケネディの戦闘群がCVW-3とともにスエズ運河を渡り、紅海へ入り、その2日後には海兵隊とその機材を満載した揚陸強襲艦のナッソー、グアム、そしてイオージマが次々とオマーン湾に到着した。

日本では、火災と定期修理を終えた空母ミッドウェイとCVW-5が近海の太平洋、日本海、東シナ海などで訓練を行っていた。中でも9月8日、対馬海峡付近で浮上して航行中のロシアのフォックストロット潜水艦を捉え、HS-12のHH-3Hが追跡を行った。またその翌日の9日にはロシア海軍の情報収集機Il-38 Mayが偵察に現れ、VAW-115のE-2Cが要撃する一幕もあった。その後ミッドウェイ戦闘群は釜山に帰港した後、横須賀に帰還している。そして1990年10月2日、空母ミッドウェイとその戦闘群は、CVW-5とともにOperation Desert Shieldを支援するため、横須賀基地を出港した。このときのCVW-5の編成を表17-1に示す。


表17-1 1990年10月2日~1991年4月17日の西太平洋/インド洋/ペルシャ湾展開時のCVW-5の編成


空母ミッドウェイは太平洋沖合で厚木基地をフライ・オフしたCVW-5の機体を回収し、まずは西太平洋を目指した。ミッドウェイ空母戦闘群とCVW-5はペルシャ湾に直行はせず、途中海上自衛隊との合同の海上戦演習“ANNUALEX”をこなした後フィリピンに向かい10月13日にスビックに入港した。スビック出港後はシンガポール空軍との合同演習を行い、10月20日にシンガポールに入港、3日後にはインド洋に向けシンガポールを発った。そしてインド洋を進んでいた10月29日、VAW-115のE-2Cが今度はインド海軍のIl-38 Mayを要撃した。そして、ミッドウェイ空母戦闘群とCVW-5は10月31日にオマーン湾に到着し、その地で”Operation Desert Shield”を支援してきた空母インディペンデンスの戦闘群との交代作業を開始した。

11月8日、ブッシュ大統領は、米国政府はさらに10万人の兵力を1月半ばまでにサウジアラビアに送り込むとともに、湾岸地域へ展開する空母戦闘群を展開中のミッドウェイ、サラトガ、ケネディの3空母戦闘群に加え、CVW-2を載せたCV-61 “USS Ranger”(空母レンジャー)、CVW-1を載せたCV-66 “USS America”(空母アメリカ)、そして、CVW-8を載せたCVN-71 “USS Theodore Roosevelt”(原子力空母セオドア・ルーズベルト)の戦闘群を派遣すると発表した。太平洋艦隊に所属する空母レンジャーは12月8日にカリフォルニア州のサンディエゴ港を、そして大西洋艦隊に所属する空母アメリカと原子力空母セオドア・ルーズベルトは12月28日にヴァージニア州のノーフォーク港をそれぞれ、中東に向け出港している。これに対し、イラク政府は、クウェートの防衛力強化のためさらに25万人の兵力を投入すると発表したが、米国はさらに1万4千名を送り込むと反撃した。



サンディエゴを出港し、ペルシャ湾へ向かう空母レンジャー(CV-61)
出典:US Navy Official Photo Archive


“Operation Desert Shield”開始の命令が下って3ヶ月が経過した。多国籍軍側は戦闘部隊の充実を図るとともにイラク軍の動静をじっと見つめてきた。戦闘機をイラク国境近くまで高速で飛行させ、イラク軍の防空システムの反応をRC-135リベットジョイントやE-3 AWACS機によって監視するのもその一環であった。またカリフォルニア州ビール空軍基地や英国のRAFアルカンバリーから派遣された第9戦略偵察航空団(9th SRW)と第17偵察航空団(17th RW)のU-2R/TR-1Aとまだ試作段階にあるE-8A Joint STARSがイラク国内の偵察に投入され、数多くのミッションをこなしていた。両者が装備する合成開口レーダにより、夜間でも鮮明な画像を提供し、その高い偵察能力が重用された。

11月15日、ミッドウェイ空母戦闘群とCVW-5は”Operation Imminent Thunder”に参加した。これはクウェートとの国境から40マイル南のサウジアラビア北東部海岸で行われた8日間にわたる大規模な揚陸強襲演習で、1000名の米海兵隊員と多数のサウジアラビア地上軍、16隻の戦闘艦、そして1,100機以上の航空機が参加したものである。この中でCVW-5機は海兵隊の航空機とともに、地上軍への近接支援や空域管制のミッションを担った。

そんな中、国連安保理はイラクに対し、「もしイラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しない場合には、あらゆる手段によってイラクに対抗する」との決議を行った。まさに戦争への最後通牒である。またこの裏ではクウェートから連れ込まれ「人間の盾」として人質となっていた外国人の解放について、イラクとの外交交渉が続けられており、12月6日になってようやくイラク側が折れ、数日内に全ての人質が解放されることになった。




砂漠の上空を飛行する米空軍第552航空警戒管制航空団のE-3セントリーAWACS機
出典:US DoD Photo Archive


米国政府の発表によると、この時点で米国がサウジアラビアへ展開していた航空機は陸海空・海兵隊合わせて、要撃戦闘機90機、攻撃機335機、デュアル・ロール戦闘機220機、その他輸送機、給油機、偵察機、電子戦機、航空警戒管制機、攻撃ヘリコプター、輸送ヘリコプター、掃海ヘリコプターなど多数で、その中にはF-15E、F-117A、E-8Aなど最新の機体も含まれていた。また主力戦車750両、戦闘車両多数、空母3隻、戦艦2隻、ミサイル巡洋艦、ミサイル駆逐艦、揚陸強襲艦などその他艦船多数という大規模なものであった。また湾岸地域へ派遣された多国籍軍地上兵力は、米陸軍:120,000、米海兵隊:45,000、サウジアラビア:38,000、エジプト:30,000、シリア:15,000、クウェート:7,000、GCC:10,000、モロッコ:1,700、英国:9,000(さらに14,000が移動中)、フランス:5,000、パキスタン:5,000、バングラディッシュ:6,000、セネガル:500、という規模に膨らんでいた。

12月24日のクリスマス・イヴにイラクのフセイン大統領は、こうした多国籍軍の動きに対抗し、「もし戦争が始まれば、我々は最初にイスラエルを攻撃する。」と宣告し、年が明けた1991年1月6日には、「クウェートのイラク軍部隊は、クウェートを自国領土として保持するための完全装備の機甲化部隊で、既に戦闘の準備を整えている。」との声明を発表した。こうした表向きの動きのほかに、米国のベーカー国務長官とイラクのアジス外相との間で戦争回避のための交渉も進められていたが、結局期限に設定された1月15日(米国東部時間)までに合意に至ることは無かった。

多国籍軍側の戦闘準備も着々と進められており、兵力の増強も重ねられていた。イラクの回答期限の前日にあたる1月15日の時点でのこの地域に展開した米軍の総兵力は415,000人に膨らんでいた。

現地時間1月16日のサウジアラビアでは、5ヶ月半彼らが繰り返してきたことが淡々と進められていた。最初に米空軍のE-3 AWACS機と米海軍のE-2Cとが発進し、イラク軍の動静を追跡できる位置についた。またペルシャ湾、紅海、そして地中海に展開する9隻の米海軍艦艇に搭載された艦対地巡航ミサイル、トマホークの航法装置には既にその攻撃目標がインプットされていた。約束の時刻は過ぎており、後は命令を待つばかりであった。

イラクへの最初の攻撃目標は、バクダッド近郊とイラク国境から約700kmの奥にある2か所のレーダサイトに設定されていた。この攻撃の遂行には、タスクフォース「ノルマンディ」に所属する米陸軍第101航空旅団の8機のAH-64A アパッチ・ヘリコプターと、これらの航法支援を行う米空軍特殊作戦軍団の2機のMH-53Jペイブ・ローが割り当てられた。この目標が選定された理由は、イラクへの攻撃に参加する航空部隊のコリドーの安全確保を目的としたもので、隠密裏に実施されることが重要であった。攻撃ヘリが選定されたのもその隠密性に加え、奇襲作戦への適合性、そして攻撃後の戦果評価の確実性、という理由からである。このタスクフォースによる目標攻撃のタイミングは、固定翼機による攻撃が開始される直前に設定されていたため、10機のヘリコプターは、16日の夜の帳が降りた直後には離陸を開始した。8機のAH-64は、レーダサイト攻撃用にレーザ誘導のAGM-114ヘルファイヤー・ミサイルと70mmロケット弾、及び130gal.の外部燃料タンクを搭載していた。




ペルシャ湾岸に派遣された米陸軍のAH-64Aアパッチ戦闘ヘリコプター
出典:US DoD Photo Archive

米国東部時間1月16日15時35分(作戦開始11時間25分前)、ルイジアナ州バークスデール空軍基地(Barksdale AFB)から第2爆撃航空団(2nd BW)のB-52Gが通常弾頭の空中発射巡航ミサイルALCMを満載して離陸する。彼らのALCM発射時刻は、開戦後2時間に設定されていた。

現地時間17日午前1時、タスクフォース「ノルマンディ」のヘリ部隊に続き、米空軍のKC-135A/E/R、KC-10A、そして英空軍のVC-10 K Mk.2/3の給油機がサウジアラビアの空軍基地や周辺国の空港から、またペルシャ湾と紅海に展開した6隻の米空母からもKA-6D給油機が発進した。彼等は攻撃隊への空中給油支援を担う。さらにこうした給油機や戦闘空域の早期警戒や航空管制を担うE-3やE-2Cを防護するため、米空軍のF-15C、米海軍のF-14A/A(Plus)、カナダ国防軍のCF-18,そして英空軍のトルネード F Mk.3が離陸し、CAP任務に就いた。また、イラクの情報通信網の錯乱や防空ミサイル陣の眼つぶしを行い、縦深攻撃部隊を防御するための電子戦機やワイルド・ウィーゼル機が飛び発った。ペルシャ湾に浮かぶ空母ミッドウェイからも、VAW-115のE-2CとVAQ-136のEA-6Bが漆黒の海に向けて発艦していった。

現地時間17日1時30分(開戦1時間30分前)、ペルシャ湾、紅海、そして地中海に展開していた米海軍の艦艇から一斉に100基以上のBGM-109 トマホーク地上攻撃ミサイル(TLAM) がイラクの首都バクダッドに向け発射された。そしてイラクとの国境から最も離れた、イエメンとの国境に近いサウジアラビアのハミース・ムシャイト航空基地に展開していた37th TFWの415th TFS/ 416th TFSが、航空攻撃の第1陣として2,000lbのGBU-10と500lbのGBU-12 のレーザ精密誘導爆弾をF-117Aステルス戦闘機に搭載し、給油機とのランデブー・ポイントを目指し離陸していった。そして、サウジアラビアの空軍基地に展開していた SEAD(Suppression Enemy Air Defense)ミッションを担う、米空軍第4戦術戦闘航空団のF-15Eと英空軍の第31飛行隊のトルネード GR.Mk1がレーザ精密誘導爆弾を搭載し、灯火管制された暗闇の中を離陸した。それから少し時間をおいて、第2波の攻撃部隊となる多国籍軍の地上攻撃隊が飛び発つ。この中にはペルシャ湾や紅海に展開した米海軍の空母からの発進機もあり、空母ミッドウェイからも、VA-185”Nighthawks”のA-6Eが第1陣としてレーザ誘導爆弾を満載して発艦し、ペルシャ湾からイラクへの海岸線を越える最初の艦載機となった。


ペルシャ湾に展開した戦艦ミズリーからバクダッドへ向け発射されるトマホークミサイル
出典:US Navy Photo Archive


一方、タスクフォース「ノルマンディ」の8機のAH-64Aは、2か所のレーダ施設を攻撃するため、4機ごとの2チームに分かれそれぞれの目標に向かった。1991年1月17日午前2時38分、目標から6km~3kmの距離に到達した8機のAH-64Aは直ぐに、赤外線暗視装置を使って目標を確認、捕捉した後、ミサイルとロケット弾を発射した。発射されたウェポンは次々に目標へと飛びこみ、電源施設、通信施設、レーダ装置が順次破壊され、イラク防空レーダサイトのスクリーンから機影が消えた。この時、トマホークミサイルや第1撃を担うSEAD機の編隊は、既にイラク国境を越え、目標に向け飛行中であった。いよいよイラクへの攻撃作戦、”Operation Desert Storm”の始まりである。

そしてAH-64Aがレーダサイトを攻撃した5分後、EF-111Aにエスコートされた22機のF-15Eがイラク西部の航空基地を襲った。さらにその15分後、バクダッドの夜空に何本もの火柱が上がるのが観測された。トマホークミサイルが目標に着弾するとともに、バクダッド西方の防空施設を狙ったF-117の放ったレーザ精密誘導爆弾が、次々と目標を破壊したのである。

米国東部時間1991年1月16日午後9時、第1波の攻撃成功の知らせを受けたジョージ H.W. ブッシュ大統領が米国民に向け、イラクからクウェートを解放するための戦い、”Operation Desert Storm)を開始したとTVを通じて伝えた。




空母ミッドウェイの飛行甲板で、1000lbのMk84 LDGPをVA-115のA-6Eに搭載するオードナンス・クルー
出典:US Navy Official Photo Archive


多国籍軍の空襲を感知したイラクは、宣言通り、17日午前2時15分に8発のスカッド・ミサイルをイスラエルに向け発射した。米軍のペトリオット・ミサイルがサウジアラビアのダーラン上空でスカッドの初弾迎撃には成功したものの何基かはテルアビブやハイファ近郊に着弾し、イスラエルに被害をもたらした。この報を受け、19日には米国はヨーロッパに展開しているペトリオット部隊をイスラエルに移動させると発表。しかし、その後多国籍軍の空爆によりスカッドの発射基地や移動発射台が破壊され、スカッドの脅威は失せた。

こうしてOperation Desert Stormの緒戦が始まり、多国籍軍の航空優勢の中で戦いが進められる。当初から予想されたことであるが、多大な規模の攻撃力と最新兵器を操る多国籍軍に、イラクの精鋭も歯が立つ筈もなかった。

1991年1月21日空母セオドア・ルーズベルトがCVW-8とともにペルシャ湾の定位置に就いた。また2月14日には紅海に展開していた空母アメリカがホルムズ海峡を通過してペルシャ湾に入り、これでペルシャ湾には、ミッドウェイ、レンジャー、セオドア・ルーズベルト、アメリカの4隻の空母が遊弋することになり、イラクへの攻撃力が大幅に増した。                                      




ペルシャ湾を遊弋する空母ミッドウェイ、空母アメリカ、空母レンジャー、そして原子力空母セオドア・ルーズベルト
出典:US Navy Photo Archive

しかし優勢の多国籍軍側にも被害がなかったわけではない。1991年1月末時点では、対空ミサイル等により米空軍機8機、米海軍機5機、米海兵隊機1機、英空軍機5機を失っている。また2月18日にはペルシャ湾北部で機雷の掃海作業にあたっていたヘリコプター空母のトリポリが、イラク軍の機雷に触れ艦艇の前方部に6m×9mの大きな穴をあけ、バーレーンで修理をすることになった。

それでも航空優勢の多国籍軍はイラク軍を追い詰め、2月23日、満を持してイラク攻撃への地上戦闘部隊を送り込み始めた。この”Operation Desert Sabre”と呼ばれる作戦は、古典的作戦に基づくノーマン・シュワルツコフ将軍の計画であった。2月25日にはクウェートでは敗走するイラク軍の戦闘車両が破壊された状態で高速道路に溢れた。いよいよ戦闘も終焉に近づいた。そして米国のブッシュ大統領は、米国東部時間1991年2月27日の午後9時に、クウェートが解放されたこと、そしてOperation Desert Stormが終了した旨を宣言した。イラクは敗れたのである。                                     




破壊され高速道路に放置されたT-72主力タンクやBMP-1装甲人員輸送車等の残骸(1991年3月8日)
出典:US DoD Photo Archive


戦いの終結が宣言された後、ペルシャ湾に展開した空母群も母港への帰還準備に入る。3月3日、空母アメリカの空母戦闘群とCVW-1が最初に紅海に向けて出発した。そして3月10日、空母ミッドウェイ戦闘群とCVW-5が横須賀に向け、ペルシャ湾を後にした。

43日間続いたこの戦いを通じ、CVW-5機の戦闘出撃回数は延べ3,339回に及び、1日平均では121回の出撃回数となった。その間、彼らがイラクとイラクに占拠されたクウェートに投下した兵装量は4,057,520lbに達している。その間、空母ミッドウェイとCVW-5の戦闘員及びCVW-5の航空機に損失を出さなかったことは、米海軍内においても高く評価され、”Battle Efficiency Award”と”Navy Unit Commendation”を受賞している。Operation Desert Stormを通じて、各飛行隊が達成した出撃回数、及び投下兵装量は表17-2のとおりである。

この中でVFA-195は湾岸戦争でAGM-62 Walleye IIミサイルを最初に使用したホーネット飛行隊となっている。また、イラクの国境を越えて戦ったのは戦闘機や攻撃機だけでなく、戦闘救難活動を任務とするHS-12も例外ではない。彼等はSEALSと協力し、イラク領内に設置された機雷の破壊や、破壊したイラク艦船からの救難活動などにもあたった。                                      


表17-2 CVW-5各飛行隊のOperation Desert Stormでの戦闘成果


ペルシャ湾を後にした空母ミッドウェイ戦闘群とCVW-5は、帰途、タイのパタヤビーチ、香港、そしてフィリピンのスビックへと立ち寄っている。また南シナ海を北上中の3月29日には、ロシア海軍のTu-95 Bear D1機とTu-142 Bear F 1機とがミッドウェイに接近してきたため、E-2Cの要撃管制でF/A-18Aがインターセプトするというシーンも見られた。そして4月17日、ミッドウェイ戦闘群は横須賀基地へと帰還し、米海軍関係者や乗組員家族の見守る中、静かに12号バースに接岸した。一方CVW-5の艦載機群は、ミッドウェイの横須賀入港に先立ち厚木基地への凱旋帰還を果たしている。この日の厚木のエプロンには、フライト・クルーの夫や父親とそれを迎える家族たちとの、無事の再会を喜ぶ姿がそこかしこに見られた。

そしてCVW-5が厚木に帰還して1ヶ月後、5月18、19日に開催された三軍統合記念日のオープンハウスは、湾岸戦争の戦勝記念オープンハウスの模様を呈し、多数の航空機の地上展示や飛行展示が行われた。特にカーズウェル空軍基地から参加したB-52Hには多くの観客が驚かされた。                                      




厚木基地の三軍統合記念日に展示された、Carswel AFBから飛来した7thBWのB-52H(1991年5月19日)
写真:筆者撮影


老兵ながら、最新艦に負けない戦いぶりを示した空母ミッドウェイであるが、既に退役の時期は決定されており、今回の作戦が最後の任務になる予定であった。しかし、6月に入ってフィリピンのピナツボ火山が噴火、スビックの米海軍施設にも大きな被害が出た。このため、空母ミッドウェイはCVW-5と救援物資を載せ、6月17日に急遽横須賀を出港、被害者救援作戦“Operation Fiery Vigil”遂行のためスビックへと向かった。この作戦には、CVW-11を載せた原子力空母リンカーンと強襲揚陸艦LHA-5 “USS Peleliu”を核とする海兵隊の揚陸即応軍アルファも加わった。作戦は短期間で終結し、6月22日にはミッドウェイは被災者や脱出者を載せ、セブ島に向かった。セブ島で本国へ空輸される人々を降ろした後、フィリッピンを離れ、7月1日に横須賀基地へ入港した。

空母ミッドウェイは8月に本国に向け出発、ハワイで新しく横須賀に配備される空母インディペンデンスとの交代式展が行われることになっていた。空母の大型化によりCVW-5の飛行隊も再編され、一層強力な空母航空団へと生まれ変わることになっていた。このため、CVW-5の各飛行隊も新しい編成に向けての準備に追われた。CVW-5再編の概要は、以下のような内容である。F-14Aを装備するVF-154 “Black Knights”とVF-21 “Free Lancers”が新たに加わり、長年メンバーの一員であったVFA-151がCVW-2(NAS Lemoore)へ移動、またVA-185が解散、VFA-195とVFA-192はF/A-18Cに機種更新、またVAQ-136も新しいEA-6Bに更新し、4機編成から5機編成に拡充、さらにミッドウェイには搭載されなかった固定翼対潜機S-3Bを装備するVS-21 “Fighting Redtails”を加えるというものである。VA-185の公式解隊日は1991年8月30日であったが、解隊セレモニーは、8月6日に厚木基地で執り行われた。そして “Operation Desert Storm”でも多くの功績を残したVA-185のクルーや機体は、VA-115によって引き継がれた。

1991年8月10日、いよいよ空母ミッドウェイとの別れの日がやってきた。大勢の関係者が見守る中、空母ミッドウェイはタグボートに押され静かに12号バースを離れ、東京湾へと動き出した。                                      




艦橋の通路にもぎっしり整列した空母ミッドウェイの士官や乗組員。”SAYONARA JAPAN”の垂れ幕が見える
出典:US Navy Official Photo Archive




消防艇が放水する中、静かに12号バースを離れる空母ミッドウェイ。舷側に並んだ登舷礼の士官と乗組員
出典:US Navy Official Photo Archive

乗組員たちは、飛行甲板の舷側に整列し、見送りの人たちに登舷礼で答えた。海上では消防艇が放水をし、見送りに花を添えた。そして、東京湾に出たところで乗員による “SAYONARA”の人文字が、飛行甲板に描かれた。 
                                     (この章終わり) 





東京湾に向け横須賀基地を離れる空母ミッドウェイ(1991年8月17日)
出典:US Navy Official Photo Archive




空母ミッドウェイの飛行甲板に描かれた“SAYONARA”の人文字
出典:US Navy Official Photo Archive

      私のアルバムから (本章に関連する当時のCVW-5の機体)

湾岸戦争から帰還直後の1991年5月18、19日に開催された
厚木基地三軍統合記念日での様子を紹介




AGM-45 Shrike 空対地ミサイルとGBU-10E 2,000lbレーザ誘導爆弾を搭載して展示されたVA-115のA-6E(161661/ NF501)




VA-115のA-6E(161661/ NF501)のコクピット側面に記入された、レーザ誘導爆弾投下マーク



VA-185のA-6E(157025/ NF401) 他の機体と異なり、兵装も無く、クリーンな状態で展示された。解散が近づいている故か?




インテーク前方に出撃マークを記入したVAQ -136 のEA-6B(162229/NF604)



VAW-115のE-2C(163026/NF601)




AGM-88 HARMを搭載して展示されたVFA-151のF/A-18A(162892/NF211)



厚木のフライトラインに並ぶVFA -195のF/A-18A。展示機と異なり、戦闘での汚れが目立つ。
空戦のためかフォールス・キャノピーを前部胴体下面に描いている。




VFA-195(NF104)のF/A-18A(162829)の機首部クローズアップ。
ヘリコプターの撃墜マークがモデックス・ナンバーの下に記入されている。




エプロンに並んだVFA-192のF/A-18A(162873/NF301)。空母の交代によりF/A-18Cに機種更新される。




展示飛行で救助ミッションをデモするHC-12のSH-3H(154119/NF614)



 Home >ハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第17話 

Vol.44 2012 August   www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /editor Hiromichi Taguchi 田口博通
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