F-14の構想は古く1950年代にソ連が対艦ミサイルを実用化し大型爆撃のTu90ベアやバジャー攻撃機の脅威が現実になるとこれらからアメリカ海軍機動部隊を守る防空戦闘機の開発が急務になった。その回答がマクダネル社のF-4Hの採用であった。海軍は当面F-4Hで防空任務は任せられると判断したもののソ連の対艦ミサイルの長射程化や近い将来出現するであろう超音速爆撃機に対抗する全く新しいウエポンシステムが必要になるであろうと考えた。この当時レーダー技術やミサイル技術は急速に発展し始め長距離レーダーと長射程ミサイルの実現が現実味を帯びてきて1959年には150キロの探知能力を持つレーダーと長距離ミサイル「AAMN-10」を搭載した亜音速の防空戦闘機開発を各メーカーに指示しダグラス社「F6D-1」案が採用されたが1960年に「防空しか能力のない機体を置く場所は空母には無い」との理由でこの計画は白紙にされた。 |
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その後マクナマラ国防長官の時代になり悪名高い空軍と海軍の戦闘機の統合計画が提案され空軍主導のF-111計画が海軍にもゴリ押しされたが艦載機としては大幅な重量オーバーや大きな機体の取り回しの悪さからF-111とは別の海軍独自の戦闘機計画が持ち上がり1968年に新型艦上戦闘機VFXとして各メーカに指示した。その中のグラマン社が提案したタンデム複座で可変翼を持つモデル303が採用され1969年にF-14として採用された。異例の速さで開発は進み1970年のクリスマス直前の12月21日に初飛行を行うという驚異の速さで誕生した。
異例のスピードで誕生したF-14ではあったがグラマン社と海軍との間で機体代金の支払いを巡るトラブルが勃発し量産機の部隊配備は1973年にまでずれ込んだがその後銀行やイランからの融資でグラマン社は持ち直して生産は順調に伸び最終的にはレギュラースコードローン24個、リザーブ4個そしてトップガン等にも配備されアメリカ海軍の守護者として2006年までの30年以上に渡り君臨し続けた。 |