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誌上個展

<日本航空史>
運び出された航空神社

  by 加藤 寛之

 航空神社は各地にあるが、これは埼玉県にある現在の航空自衛隊入間基地が陸軍航空士官学校であったころ、そこにあった「航空神社」の話。
 昭和20年9月3日、陸軍航空士官学校長であった徳川中将(日本初飛行の徳川氏である)が、校内にあった航空神社のご神体を、夜の闇にまぎれてトラックで所沢市小手指の北野天神社境内に移したという。そして11月3日には、遷宮の儀と戦没者4950柱の慰霊祭が厳かに執行されたという。その後も毎年4月3日及び11月3日に、参列者東久邇宮、荒蒔元中将等多数の関係者を招き、春秋の大祭を催していたそうだ。
御祭神には日本航空界の殉職者、戦死者及び昭和30年からは、航空自衛隊の殉職者も祀っていたという。
奉讃会も組織されていたようだ。奉讃会は入間基地内に神社としての設置を希望したが、調整の結果、場所は奈良に決まり神社としての型もとらないことになった。奈良に移すにあたり、昇天慰霊の儀を行い、航空神社の神格は消滅した。受け入れ式は昭和40年11月19日に実施、航空自衛隊奈良基地幹部候補生学校参考館に名簿と同霊名碑は奉安されという。このことについて何か分かるかと電話をかけて聞いてみたが、何もそれらしい回答はいただけなかった。北野天神社境内には現在、「航空神社跡」を記した柱がある。


写真は、陸軍航空士官学校内の航空神社。



(webmodelers編集部コメント)
 話題の航空神社は 修武台航空神社のことだと思います。
 webmodelers編集部でも 調べてみましたら、安藤希章著の『神殿大観』によりますと、平時の殉職者は靖国神社合祀の対象とならなかったのが創建の理由だそうです。
 自衛隊創設後の殉職者も祀られていましたが、1962年に市ケ谷に自衛隊殉職者慰霊碑が建立されると、殉職者が分霊されたということです。
 霊名簿4冊・霊名牌三座の旧御神体は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校の資料館に奉安されたのち、1988年2月に旧地である入間基地の修武台記念館・航空神社資料室の奉安庫に遷されたようです。ですから、奈良では もうわからないのかもしれません。


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