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誌上個展

<日本航空史> DC-4E 深山の原型

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム



 深山が輸入機DC-4Eを原型にしていることは、太平洋戦争時期の日本機に興味がある方ならば知っていると思う。DC-4といっても大量生産された機体とは全く別の飛行機で、造られたのは1機のみ。その1機を日本が輸入し製造することにして図面から入手、実機もバラして深山の設計に流用したということだ。末尾の「E」は5番目のことではなく、後日のDC-4と区別するために付した、原型を意味する「E」だそうだ。

 ダグラス社と米政府、米軍だって、これが軍用機にバケると予想できたと思う。自分の国でも、DC-2やDC-3、B-17などのその時代の巨人機は、あるものは爆撃機に、あるものは旅客機へと、プラモデルのように胴体パーツ替えで新製品を作っている。先月のこのコーナーでとり上げた満州航空「暁」号はDC-2を参考にした飛行機だが、当時のことだ、日本のこの作業を米国が知らないはずはない。
 日本側は昭和13年の実機製造に並行して主翼図面から入手して参考にし、機体は完成後の昭和14年に日本へ運ばれ飛行試験はしたものの、まもなく分解されて二度と飛ばなかった。図面では読めないところの実物資料になったらしい。深山の原型に使ったというと、設計主務者の松村健一技師が情けない設計者のように聞こえるが、作ったこともない巨人機が製図盤の上で線を引けば出来上がるとは思えない。材料、工作機械、部品工場、精度と品質管理、組み立て技術などの全てを育てないと造れない。当時の日本の技術でどこまで可能か、どのくらいの時間で可能か、等々、考え出したらきりがない。実用機として軍が入手するためのコピー作業なのだが、松村氏らにとってみれば航空機産業全体を調和させ育てる作業であったのだろう。



 昭和17年発行の日暮時郎編纂『世界優秀飛行機総覧』(山海堂出版部)を見ると、DC-4Eと並んで、「改造型」として量産されたDC-4の図面が載っている。国民が深山のことは知らないにしても、昭和17年になるとDC-4Eが不採用機だったと国民は知っていたことになる。じゃあ、深山ってなんだったの? どう表現してよいか分らないが、国力の差と戦争のムダと、どこか悲しい気持ちになる。それでも松村氏は深山の後についに連山をまとめたのだが、戦後まもなく、犬に噛まれたことが原因で早世したという。なんということだろう。  DC-4Eと深山の関係は、秋本実『巨人機物語』(光人社NF文庫、2002年)に深山の立場から詳しく書いてあるので、興味のある方はそれを読んでほしい。


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