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誌上個展

<日本航空史> 東 善作と東京号

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム

 おそらく、日本全国でこの写真を見て分る人はあまりいないと思う。写真には説明が付してあり、「東京号於野村練兵場」とある。野村練兵場は、金沢市にあった陸軍の施設。
この何だか分らない飛行機に乗っていた人物は、東善作という石川県出身の飛行士。「男子の往く所は空なり、我れも飛行家たらんことを決意し、柳行李一つを携えて大正十五年の秋に渡米した」。飛行免許取得といっても、「飛行機の操縦を習いたい一心で、ただそれだけで米国陸軍航空隊に志願し入隊した」のだそうだ。
 除隊後、手に入れた中古のトラベル・エア4000型を10時間くらい飛べるように改造、「東京号」と名付けた。深紅のトラベル・エア4000型は1930年5月21日の朝早く、ロサンゼルスを出発、東回りにニューヨーク(大西洋は船を利用)~ロンドン~モスクワを経由、総飛行距離1万8000km・所要日数70日で年8月31日の残暑きびしい午後に立川飛行場に到着したのだという。9月中旬には故郷や金沢へ訪問飛行を行ない、それが掲載写真。「待ちかまえていた大群衆は飛行機目がけて押しよせ」たという。



 東善作はその後に米国へ戻ったが、「東京号」は陸軍に研究用として引き渡され、その後日本電報通信社が入手して「日本号」と改名し使用、1932年3月に大破して廃棄されたという。

東氏は1934年に日本へ帰国していたが、戦後にはウラン鉱脈を捜し始め1955年3月に人形峠で鉱脈を発見、1957年にウラン鉱業株式会社を設立した。
 この記事はだいぶ前に写真解説文として書いたものが原型で、参考文献の記載がない。もちろん出典は思い出せなく、申し訳ない。
 そうはいっても、『日本民間航空史話』(日本航空協会・初版昭和41年)に、東善作本人が「「東京号」による帰国飛行の思い出」を寄せており、そこからの引用があることは記しておきたい。たとえばロサンゼルス出発日は、東氏の前掲著による。
 
これとプラモデルの関係を書けばWebモデラーズらしいのだけれども、世の中そんなに甘くない。ほぼ関係ナシであろう。
次回は、プラモに関係ある飛行機にしようと思う。


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