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誌上個展

<日本航空史> 日本最初の気球飛揚

  by 加藤 寛之
プラモデル コラム



 この写真は、家族が長崎に行った時に撮ってくれたもの。検索したところ碑は現存しないようだが、本当だろうか。場所は、市立市民病院とホテルニュータンダの間にある十八銀行体育館前だそうだ。
気球飛揚は、『ながさき稲佐ロシア村』松竹秀雄著(長崎文献社、2009年)に書いてあるらしいが、私は未見。そんな事情もあって、詳しいことは分からない。
案内板の文章を載せておく。



  文化2年(1805)1月8日、当時入港中のロシア使節レザノフ一行の軍艦乗組員がこの地から当時、日本人が見たことのない、今でいう熱気球を揚げてみせた。
自国の先進ぶりを“アピール”したものと思われます。

<日本航空史 オマケ編>
塗装の話・現場はいろいろ

「日本最初の気球飛揚」があまりにも短いので、今回はオマケがある。
「日本航空史」は、私が「何か」の現物を持っていることを条件にして書いているのだけれども、オマケ編ということでお許しいただきたい。

 近年になって太平洋戦争当時の日本機の塗装は、驚くほど調査がすすんでいる。それは素晴らしい成果だ。でも私は、“プラモデルはプラモデル”と思って好き勝手に塗る。それは「現場は規定のようにはならない」と思っているからでもある。
 たとえば、日の丸について。
 烈風の試作機のことだが、『航空ファン』1961年6月号の「モデル工作よろず相談」で、伝聞情報として確信はもてないとしながらも、「機体上面ダーク・グリーン、下面ライト・グレイ、カウリングは黒・・・日の丸の白いフチを黄色に塗り、試作機としての区別をしていたそうです」と答えている。日の丸のフチを黄色という塗装は面白い、と思っていたら、『航空ファン』2014年3月号に302空の雷電・伊藤進大尉搭乗機がカラー側面図の機体も胴体の日の丸が黄色いフチになっている。なんだ、実戦機にもあるのか。
 開戦直前、日の丸ナシの偵察飛行は、よく知られている。百式司偵の塗装について『プラモガイド1964』に、こう書いてあった。「100式司偵も・・・開戦前からシンガポールなどの準備偵察をしていた100式司偵の一部には日の丸も付けない<無塗装銀>のものもあったと聞いている」とある。事実ならば大変に興味あることで、100式司偵はおそらく初期であるほどパテでパネルラインを埋めてあると思う。よって銀色は「無塗装銀」ではなく、「銀塗装」でないと成り立たない。『丸 エキストラ版』№38の美坐正巳「日の丸なき隠密偵察隊」には、昭和16年11月21日として98式陸偵で「マークの日の丸は、ドロ絵具で消されていた」とある。泥絵具は水で溶く安っぽい絵具だから、発色はさえず艶もなく、一度飛べば剥がれたり溶けて流れたりしたはずだ。模型で再現したら、ずいぶん汚らしいだろう。
 旧版『世界の傑作機』№20・№148「疾風」に「敵機と編隊を組んだ話」が載っている。「そのころは胴体と翼上面の日の丸はなく、翼下面の日の丸だけの塗装でした」とある。まるでデカールを貼る前のプラモデルだ。
 『丸』昭和52年9月号には、硫黄島で新品の52型が「機体の製造番号はおろか日の丸までが全部、・・・消されてしまったのだ。一変して、真黒い国籍不明の零戦ができあがった」。しかもその機体は「両翼に各二梃、座席内に一梃と計五梃の十三ミリ銃が取りつけられており、二十ミリは装備していなかった」という。こうなると、規定って何だ、と思ってしまう。
 塗りつぶしでなく、詐称もある。佐藤次男『幻の潜水空母』(光人社NF文庫)によれば、大湊からウルシー攻撃へ出撃する際、機体を銀に塗って日の丸を米軍の星マークに書き換えたダマシ塗装を施したらしい。これはプラモデルでもときどき再現されている。似たようなダマシの例は零戦にもあり、『航空ファン』1965年12月号には「鹿屋から特攻に出た零戦のなかに、32型に星のマークをかいて出撃したものが2~3機」あったという。特攻機には個人マークや特別な塗装が許された例があったようだが、米軍マークを描いた特攻隊員の心情はいかがなものだったろうか。
 本Web誌の投稿に「?」マークの飛行機のことがあったが、日本機にもある。飛行第16戦隊の九四式偵察機は、昭和13年春の1カ月程度の期間、胴体の日の丸に換え、“戦力の無限を示す、敵に精神的な躊躇を与える”ことをねらって、「-?→」(右側の例)を描き、その写真が『航空ファン』1969年12月号に掲載されている。「?」マークは、当時の印刷物に今日の「!」と同義で使われているものがあるから、もしかしたら今日の「!」のことかも知れない。
 太平洋戦争末期の日本機の下面色はこう規定された、という調査が雑誌に出たときは感服した。じゃあ、現場はどうだったのか。『航空情報』1995年4月号に、渡辺利久氏が「下采昇氏にお伺いした」内容を記述している。「Ⅲ型上面塗装は暗褐色で、日本塗料商組見本1991年版ではR28-336が最も近く、日の丸は暗褐色塗装をした上から重ね塗りしたため、それまでの隼の無彩地に赤の明度に比べて遥かに暗い色相となっている。下面色はそれまでとは違って上面色を白で薄めたもので、・・・」、下面色はそうやって調合していたのだ。
現場はいろいろなのだ。



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