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CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 2                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

第2話 ジェット時代の夜明け

  CVG-5を載せた空母フランクリン(CV-13)は、日本軍機の攻撃で、これまで2度の被害をこうむったが、辛うじて生き延びてきた。しかし、1945年3月19日に受けた攻撃は、艦内で爆発した爆弾が誘爆を招くという最悪の事態となり、艦も大きく右舷に傾く。
しかし、強運の持ち主フランクリンは沈むことなく、重巡ピッツバーグに曳航され、ウルシーを経由し真珠湾に帰り着いた。真珠湾では自力航行可能なまでに修復され、その後ニューヨークのブルックリン造船所へと向かう。
CVG-5の3月19日直前における部隊構成と使用航空機は表2-1のようであった。攻撃を受けた当日は、すでに艦載機の一部が神戸の襲撃へと発進した後であっが、艦内で整備を受けていた機体や艦上にあったも機体は、当然のことながら大破、炎上してしまった。そのため、攻撃から帰還してきた機体の収納は他の空母に任せざるを得ず、CV-20 USS Benningtonに着艦した。また救助され生き残った人員は、CL-60 USS Sane Feに移され、本国に送還された。

こうして、CVG-5の戦いは
終り、本国で終戦を迎える。戦
後は太平洋を活動拠点とする
ことになりカリフォルニア州の
サンディエゴ海軍航空基地へ
と移動する。
そして戦後1年がたった
1946年11月15日に空母航
空群の改変が行われ、CVG-5
はCVAG-5と呼称が改められ
た。



日本軍機の攻撃を受け、大きく右傾したCV-13 USS Franklin.
Official U.S. Navy Photograph of the National Archives
(# 80-G-273880)

表2-1 1945年3月17日でのCVG-5の編成


 第1話ではこの時期までの様子について述べた。第二次大戦後の米海軍の空母並びに空母航空群にとっての大きな変化は、終戦とともに始まった。それは終戦による軍備縮小に対応した部隊の再編と、艦載機のジェット化に対応するための準備に基づく。第2話では終戦直後における、空母並びに空母航空群の変遷と、艦載機のジェット化が始まる大きな変化の中でのCVG-5の変化について述べてみたい。そこで第2話の初めに当たり、この当時の状況についてもう少し触れることにする。
大戦の終結とともに、米国内では経済の立て直しが始まり、余剰軍備の縮小が大きな課題となった。終戦当時、米海軍が保有していた空母は、大小合わせて99隻に上り、さらに30隻が建造途中にあった。5年後に朝鮮半島で火の手が上がるとは、誰もが予想しなかったことで、海軍も就役空母の隻数を大幅に削減する作業に入った。そして老巧化した現役空母の多くは退役し、その後継艦には、建造中の新造艦があてられることになり、新造艦の多くは、建造が続行された。退役しなかった艦船は予備役に編入され、また一部はモスボール化して保存された。それでも余剰となった船は、民間に払い下げ貨物船に改造されるもの、また核兵器の標的艦に転用されるものと、様々であった。こうして、1947年の半ばには、就役中の空母が、表2-2に示す21隻にまで削減された。

表2-2 1947年中期における就役中の米空母一覧



 一方、空母の削減は搭載される航空部隊の削減にもつながる。終戦の時点では、軽空母航空群(CVLG)や護衛空母航空群(CVEG)を含むと、米海軍には78個の空母航空群が存在していた。このため、海軍は空母と並行して空母航空群の削減と再編に着手する。こうして1946年11月15日付で17個にまで縮小した新しい航空群の編成が発令された。この時の航空群の内訳は以下の通りである。

               大型空母航空群 CVBG×3
               攻撃空母航空群 CVAG×11
               軽空母航空群  CVLG×1
               護衛空母航空群 CVEG×2

さらに1946年11月15日付の編成時には、各飛行隊の名称も変更された。大きくは、戦闘飛行隊(VF)と戦闘爆撃飛行隊(VBF)が戦闘飛行隊(VF)に統一。また爆撃飛行隊(VB)と雷撃飛行隊(VT)が攻撃飛行隊(VA)に統一されたということである。特に攻撃航空群(CVAG)の構成飛行隊には、飛行隊番号の末尾に「A」を追記することになった。

CVG-5の例
VF →  VF :航空群と同じ数字(奇数番号) VF-5A
VBF  →  VF  :航空群の番号にプラス1をした数字(偶数番号) VF-6A
VB   →  VA  :航空群と同じ数字(奇数番号) VA-5A
VT   →  VA :航空群の番号にプラス1をした数字(偶数番号) VA-6A

 このように戦後のこの時期は、空母、航空群、飛行隊と相次いで再編が行われ、呼称が目まぐるしく変わった。航空群と飛行隊については、1948年の7月から9月にかけても再編が行われており、一連の動きを分かりやすくするため、終戦時から朝鮮戦争直前までの空母航空群の変遷を表2-3にまとめてみた。


表2-3 終戦時から朝鮮戦争直前までの米海軍空母航空群の変遷



さて、この辺りで話をCVAG-5に戻すことにする。
戦後もずっと陸上生活を続けてきたCVAG-5に西太平洋へのディプロイメントの指令が届いたのは、1947年も明けてのことだった。
今回はCV-38 “USS Shangri-La”に搭載されての展開である。シャングリラがサンディエゴを出港したのは、1947年3月31日であった。
出港後CVAG-5の艦載機群を収納し、一路ハワイへと向かう。そして真珠湾で休息を取った後オース トラリアのシドニーへ。シャングリラは、この航海の後退役し、太平洋の予備役艦隊に回ることが既に決まっていた。西太平洋での訓練の後、真珠湾を経由してサンディエゴに帰港したのが、1947年6月16日のことであった。

1947年3月6日にPuget Sound 海軍造船所で撮影されたCV-38
US NAVY Official Photograph



太平洋を航海中のCV-38の飛行甲板で翼を休めるCVAG-5
の艦載機群。手前に見えるのは、VA-5AのカーチスSB2C-5.
U.S. Navy National Museum of Naval Aviation
photo No. 1996.253.174

この航海でのCVAG-5の飛行隊の構成は以下の通りである。

表2-4 1947年3月31日~7月16日におけるCVAG-5の構成



さて、ともに行動してきた空母シャングリラが退役することになり、陸に上がったCVAG-5は再び、陸上航空群となる。この陸上暮らしは思った以上の長期間になるが、それはまたCVAG-5にとって大きなチャンスを与えてくれた。それは、ジェット時代への先駆者という栄光である。

ここで再度本題を離れて、米海軍ジェット戦闘機の黎明期の様子を述べてみる。

 米国では、陸軍の方が戦闘機のジェット化に先行していた。陸軍は1941年頃から開発に着手し、1942年10月1日に米国で最初のジェット
機、Bell XP-59 “Airacomet”の初飛行に成
功していた。翌年には僅かであるが、量産
機を発注している。これに対して海軍は少し
遅れ、1943年の末に陸軍から2機のエア
ラコメットの試作機YP-59Aを移籍し、ジェッ
ト機の運用試験を始めた。陸軍と違い、海軍
では空母での運用という制約があり、その点
における課題の解決も必要とされた。こうし
て海軍は、1943年8月30日に新興の航
空機メーカであるマクダネル社に海軍初の
ジェット戦闘機XFD-1 “Phantom”を発注し
た。
 
 
この頃、ジェットエンジンも機体と同様に黎明期にあり、性能的にも、また生産的にもまだまだ不十分な面が多かった。このため海軍では、Ryan FR-1 “Fireball”といったレシプロエンジン機に小型のジェットエンジンを装着した奇妙な機体の開発も進めていた。まさに黎明期ならではのことである。


XFD-1は、ウェスティングハウス社の
X-19B-2Bターボジェットエンジン 2基
を装備することになっていたが、エンジン
の開発・製造が遅れ、1945年1月26日
の初飛行時には、エンジンが1基しか間
に合わず、片肺での初飛行となった。現
在では考えられないことであるが、当時は
それでも飛ばすことのできる環境にあった
ようである。海軍はこのXFD-1の初飛行
の成功を受け、ようやくジェット時代への仲間入りを果たした。



McDonnell XFD-1 by US NAVY


この試作機の初飛行成功を受け、1945年3月7日
に、海軍はマクダネル社に対し、量産型機FD-1を100
機発注する。(その後60機に削減される)こうした中、
ジェット戦闘機の空母での運用環境の整備が急がれる
ことになった。このため海軍は、陸軍では実戦機として
採用されていたロッキード社のP-80Aを海軍が3機調
達し、この内の1機にアレスティングフックやカタパルト・
フィッティングを取り付けた。そして1945年6月29日
に、この3機のP-80Aをメリーランド州の
NAS Patuxent River へ送り込んだ。パタクセントリバーでは、このP-80Aを使用して空母での離着艦試験を含む運用評価試験が実施され、ジェット戦闘機の空母への適合性が確認された。


CV-42の艦上で空母適性試験を行う海軍のP-80A(1946.11.12)



CVB-42を発艦するFH-1
US NAVY Official Photo
一方、初飛行後のXFD-1は、陸上での試験が行われ、1946年7月21日には米国のジェット戦闘機としては初めて、空母での離着艦に成功している。このとき使用された空母は当時最大の空母、CVB-42 “USS Franklin D. Roosevelt”であった。そして翌年には試作試験の結果を反映した形で60機の量産に”GO”サインが出された。このとき量産機の呼称がFD-1からFH-1に変更されている。これはダグラス社のDとの混乱を避けるためであった。
                               さらに海軍は、1944年にはノースアメリカン社とチャンス・ヴォート社にもジェット戦闘機の試作機を発注した。この背景には大きさの異なる空母での運用を考え、複数機種のジェット戦闘機の配備計画があったと考えられる。


North American XFJ-1 “Fury”
ノースアメリカン社の開発した機体は、XFJ-1 “Fury” で、アリソンJ-35-A-2軸流式ターボジェットエンジン1基を備えた直線翼のオーソドックスな機体であった。特に短期間の開発もあって、同社のP-51の主翼、水平尾翼、垂直尾翼を流用してお
り、ジェットエンジンの納められた胴体だけが新規に設計されたという感じである。

XFJ-1の初飛行は、戦争が終わって1年後の1946年9月11日に行われた。1945年には100機の量産機FJ-1が発注されたが、その後30機に縮小されている。この点は、FH-1が、60機に縮小されたのと同様であり、恐らく技術の未熟さへの不安から、大量生産に移行するリスクを避けたものと思われる。そのこともあり、海軍はこの時期、FH-1とFJ-1の後継機種として、マクダネル社のF2H “Banshee”とグラマン社のF9F “Panther”の開発に踏み切った。 F2Hの開発は、1945年3月2日にXF2D-1(後にXF2H-1に変更)スタートし、試作機は1947年1月11日に初飛行に成功している。そして1948年度には量産型のF2H-1 56機が発注された。一方、F9Fにおいては、2機の試作機XF9F-2が1946年12月16日に発注され、1947年11月24日には初飛行を終えた。そしてF2H-1と同様に1948年度に30機の量産機F9F-2が発注された。この2機種が艦載機のジェット化を進める大きな牽引力となるのは、歴史の示すところである
しかし、30機で生産を終えたとは言え、ムスタングの血統をひくこのFJ-1は、後に海軍FJ-2/-3/-4へ、そして世界中で使用される歴史的名機F-86 “Sabre”へと発展していく。

 もう一方の、チャンス・ヴォート XF6U-1は、
1944年も暮、12月29日に試作機 3機の発
注を受けた。XFJ-1同様太い胴体に直線翼を
組み合わせたデザインは、高性能を感じさせる
ものではなかった。1946年10月2日に試作
1号機が初飛行したものの、エンジンの出力が
低く、期待した性能を得ることができなかった。
このため、試作3号機では、アフターバーナー
付きのエンジンを装備して飛行している。アフタ
ーバーナー付きのエンジンによる飛行は、米海軍では初めてのことであった。こうした中、低性能ながら海軍は量産型F6U-1を30機発注、その初号機が1949年3月5日に初飛行している。海軍はこの量産機の20機を海軍の運用評価飛行隊に引き渡し、客観的に運用評価試験を行うことにした。その結果、パイレーツには「海軍の要求に不適合」との評価が下された。




Chance Vought F6U-1 “Pirate”

アフターバーナー部が無塗装となっている



このようにして米海軍は、最初の艦載用ジェット戦闘機としてマクダネル社のFH-1 “Phantom” とノースアメリカン社のFJ-1 “Fury” を選定した。いよいよ艦載ジェット戦闘機の誕生である。そして両機ともほぼ時を同じくして実戦飛行隊へと配備される。

さてFH-1は、2個飛行隊分60機が生産され、1947年7月23日を皮切りに大西洋岸にベースを置く、CVAG-17傘下のVF-17AとVF-18Aに配備が始まった。またFJ-1は、1飛行隊分30機が1947年10月から1948年の4月にかけて、西海岸に拠点を置くCVGA-5のVF-5Aに配備された。このときVF-5Aは、サンディエゴ近郊のNAS North Islandをホームベースとしていた。こうしてCVGA-5は、米海軍で2番目に、そして西海岸では最初のジェット戦闘機運用航空群となる。

 VF-5Aは、空母の飛行甲板を模擬した
着陸訓練など、FJ-1への慣熟訓練に力を
入れていった。そして1948年3月10日に
VF-5Aの隊長、Pete Aurand中佐の手に
よって、カリフォルニア沖を航行する空母
CV-21 USS Boxer艦上へ、初の着艦が
試みられた。着艦後、副長のRobert Elder
少佐と交替し、続いてボクサーからの発艦
が行われた。何度か離着艦が繰り返され
たが、この結果カタパルトの必要性が認識
され、空母にカタパルトを常備することが決
定される。



CV-21 USS Boxerから発艦するXFJ-1
U.S. Navy Naval Aviation News, Mar. 1963


 
編隊飛行するVF-5AのFJ-1(1948年2月)
http://aviationartstore.com/

また1948年には、VF-5AのFJ-1は,大陸横断長距離レースに出場し、空軍のF-80を打ち負かし、ベンディックス・トロフィーを獲得している。それでも、VF-5AのパイロットたちのFJ-1に対する評価は厳しかったようである。

さてVF-5Aの姉妹飛行隊であるVF-6Aはというと、ジェットパイロット養成のための任務に就くことになった。今でいう転換飛行隊である。しかし、機体もVF-17A、VF-18A、そしてVF-5A用の90機しかないという状況ということから、海軍は空軍(1947年9月18日に陸軍から独立して創設された)から
Lockheed F-80C “Shootingstar” を50機借り受け、TO-1(後にTV-1)としてジェットパイロットと整備員の養成に充てることにした。50機のTO-1の内訳は、24機がVF-6Aへ、12機が海兵隊のVMF-311へ、そして残りは予備機として保有されることになった。


またTO-1には、空母での離着艦に必要なアレスティングフックやカタパルト・フィッティングなどが装備されなかったため、陸上機として使用された。
VF-6Aは、TO-1の慣熟のためアリゾナ州のWilliams米空軍基地で訓練を受けた後、ホームベースのカリフォルニア州 ノース・アイランド海軍航空基地で転換飛行隊の任務に就く。ノース・アイランドには、各飛行隊からパイロットや整備員が集まり、SNJからF9Fへの転換訓練がTO-1を使用して行われた。
 

VMF-311で使用されたTO-1

こうしてCVG-5は、米海軍艦載ジェット機の黎明期を支える航空群として存在感を高めていく。
また、表2-2で示したように、1948年9月1日付で、航空群の名称が再度改正され、同時に飛行隊の呼称も変更された。このときのCVG-5の構成飛行隊は、表2-5のとおりである。
                                               (この章終わり)
表2-5

注)飛行隊の名称の()内は旧呼称


1946年~1948年の艦載機の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/Wings http://www.fader.dyndns.org/wings/
North American FJ-1 NavyJet Fighterhttp://aviationartstore.com/North%20American%20FJ-1.htm)


Chance Vought F4U-4 Corsair of VF-82, CV-15 USS Randolph in 1946

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Grumman F8F-1 Bearcat of VF-19A in 1947

© Stephen Mudgett, http://www.hyperscale.com/

Grumman TBM-3E Avenger of VA-6A in 1948

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

North American FJ-1 of VF-5A in 1948

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch




Vol.6 2009 July.        www.webmodelers.com          Office webmodelers all right reserved   無断転載を禁ず  リンクフリー
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