ダグラスA-4スカイホークは米海軍が1950年始めに 本格的な主力艦上攻撃機として開発を始めた機体でありまして、設計は実用機を作らせたらピカ一といわれた名設計者 エド・ハイネマンによります。ロッキードスカンクワークスのクラリスケリージョンソンを一方の天才設計者としたら、対極にある名設計者といえましょう。
ハイネマンの構想により、小型核爆弾を積め、阻止攻撃作戦に使用できる機体として、最大重量13.6トン以下の小型、軽量、単発の機体設計が進められました。 製造コストが大型攻撃機の実に1/3と経済的。A5ビジランティに比べると、いわば軽自動車であります。小型でコクピットが狭く、まるでレースカーのような乗り心地から ハイネマン ホットロッドと呼ばれました。
54年6月にXA4D-1が初飛行しております。量産機はA4A,B,C,Eと発達し、A4Eは496機が生産され、ベトナム戦前に一度、めでたく生産が終了しました。
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しかし、ベトナム戦で 対空小火器により、バタバタと撃ち落とされ、多量の損耗により、機数不足となり、 1966年、発達型であるF型の生産が開始され、146機生産されております。翌年から 計11個のVAがA-4Fを装備いたしました。
F型はアビオニクスなど電子装置の強化を計り、パンプバック型の背中の膨らみに収めました。また、前輪のステアリング装置がやっと追加され、地上走行の不便さが解消されました。
フラップ上面のリフトスポイラーが追加され、運動性能が向上しております。その理由は北ベトナムのSAM制圧のアイアンハンド作戦に多く使われるからでありました。アイアンハンド作戦とは自機を囮に、隠されたSAMサイトからSAMを撃たせ、撃たれた瞬間にチャフを放出して パっとツバメ返しに切り替えしてポップアップいたします。一目散に逃げるかと見せかけておいて、急降下、必殺の空対地ミサイルをお見舞いするという逆襲作戦であります。肉を切らせて骨を切る、そのために軽快な運動性能が必要なのでありました。
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それでも多大の損害を出しまして、ベトナム戦後には 実に少数しか残存しておりません。
生き残った幸運な機体は本国で、軽快な操縦性を生かしMIG21をシミュレートしたアグレッサーとして、トップガンスクールでご奉公をしております。 トップガンスクールとは実機を使ったコンバットゲームセンターでありまして、実戦部隊で選抜され送り込まれたファントムのトップガンでも一人前になるまでには A-4教官機にに何度も撃ち落されたようであり、これでは 実戦ではいくつ命があっても足りません。
このA-4Fも損耗の多さから、1968年からA-7コルセアの実戦配備が始まると 部隊勢力を減少して行き、1975年には現役部隊から引退いたしました。
スカイホークは更に海兵隊のA-4Mに発展し、1970年から生産が始まり、M型は岩国でもよく見かけられております。基本設計が良い機体は、改良しながら、息長く使いまわせるという好例でありましょう。 |