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CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 4                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

第4話 朝鮮戦争(前編)

 1950年6月24日、韓国陸軍会館の落成式がソウルで開催されていた。夕方からはパーティーも催され、翌日が日曜ということもあり、士官たちの酒宴も盛り上がった。そんな中、北朝鮮軍は南北朝鮮の分割ライン、北緯38度線にじりじりと忍び寄り、その時を待った。そして翌 6月25日の早朝、午前4時をもって砲撃を開始。雨が強く降る中、ソ連製戦車T34数百両を先頭に、約100,000の兵士が38度線上の11か所で境界線を突破した。まさにナチス・ドイツの侵攻を思わせる電撃作戦である。韓国軍は、北朝鮮軍の砲撃と分かり兵員を非常招集するも、虚を衝かれた韓国軍の指揮系統は乱れ、対応が遅れる。装備も北朝鮮軍に劣る韓国軍は防戦一方で、後退を余儀なくされた。正午ごろには、北朝鮮空軍のYak-9戦闘機がソウル近郊の金浦飛行場上空に現れ、機銃掃射を繰り返した。さらに北朝鮮軍は東海岸からも上陸を開始し、韓国軍の守備隊と戦闘に入る。

一方、ワシントンへの北朝鮮軍侵攻の第1報は、現地時間24日の午後9時30分(韓国時間25日午前10時30分)に届き、さっそくトルーマン大統領にも伝達された。週末の休暇をミズーリ州の自宅で過ごしていた大統領は、すぐさまワシントンへと向かい、午後7時にホワイトハウスに到着、閣議決定を経て極東軍に対し出動命令を下すとともに、現地指揮官に日本に進駐した連合国総司令官のマッカーサー元帥を任命した。

開戦2日目の6月26日には北朝鮮軍はソウルに迫った。このため、韓国政府は水原への遷都を決定。この間、北朝鮮の金日成は、韓国軍の侵攻に国民総動員を訴え、「韓国軍を打ち破り朝鮮半島の武力統一を目指す」旨、宣言する。

またトルーマン大統領はマッカーサー司令官に対し、在韓米人の救済・保護、及び韓国への軍事支援を指示するとともに、北朝鮮軍への攻撃命令を出す。この指示に従い、マッカーサーは極東米軍に出動準備を命じるとともに、第7艦隊の第77機動部隊を朝鮮海域へ派遣、半島周辺海域を封鎖するよう命令を下した。(この時点では、地上部隊の投入許可は出ていなかった)

27日になって、韓国の李承晩大統領は、ソウルを脱出。国民に対し水原への遷都放送が行われたため国内は大混乱となる。その間、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒しながらソウルへと迫るが、水原遷都の情報が錯綜し、米韓指導部の行動も統一を欠く結果となった。一方、この日も北朝鮮軍のYak戦闘機が金浦飛行場を攻撃したが、この際迎撃したWilliam Hudson中尉とCarl Fraster中尉の操縦する68th F(AW)SのF-82GTwinmustung がこのYak-9戦闘機を撃墜している。これは、空対空戦闘における米軍側初の撃墜スコアである。


Hudson, Fraster両中尉機と同型の米空軍のF-82G

また27日夜、トルーマン大統領の提唱で招集された国連安保理事会で、ソ連欠席の下「北鮮弾劾決議」が採択され、北朝鮮の攻撃を封じるための支援を韓国に与えることを参加国に要請する。

6月28日午後、北朝鮮軍の戦車がソウル市内に侵入、韓国軍は漢江にかかる人道橋と鉄橋を爆破し、ソウルを撤退。韓国軍の散発的な抵抗は見られたものの、夕刻には北鮮軍によってソウルが制圧された。

6月29日朝、マッカーサー司令官が東京から飛来、李承晩大統領と会見の後水原を視察した。マッカーサーは、爆撃機を嘉手納から発進させ、ソウルの北に近づいた北朝鮮軍を爆撃させる指示を出す。これらの爆撃機は、グアムのアンダーセン基地から移動してきた第19爆撃群(19BG) の22機のB-29Aであった。また米海軍の対空巡洋艦ジュノー(CLAA 119 USS Juneau)が、韓国東海岸の三陟地区に対し海軍艦艇として初の支援砲撃を行った。一方、韓国政府は水原から大田へ移動。


北朝鮮軍を編隊で爆撃する19BGのB-29A
出典:http://www.koreanwar-educator.org/memoirs/durham_clyde/index.htm

6月30日になり、マッカーサーの指示に基づき、嘉手納に移動してきた19BGの15機のB-29が嘉手納を離陸、東シナ海を渡って朝鮮半島に入り、漢江に沿って移動する北朝鮮軍らしき部隊に爆弾の雨を降らした。こうしたB-29による爆撃は、この後も続くがその効果は決して大きくはなかった。その原因は、本来戦略爆撃機であるB-29に戦術爆撃を行わせた点にある。こうしたこともあり、北鮮軍の南進は止まず、押される一方の韓国軍や米軍事顧問委員会は、韓国政府に続き大田へと後退した。またトルーマンは、度重なるマッカーサーからの要請に対し、やっと陸軍の地上部隊投入を命じる。

7月1日早朝、李承晩は大田を離れ、釜山へ避難。北鮮軍は、仁川を制圧。
一方、米軍の動きも活発になってきた。許可の下りた陸軍部隊1個連隊が、板付基地から釜山へ運ばれてきた。部隊は、日本に駐留する第24師団隷下の第21歩兵連隊で、スミス機動部隊と呼ばれた。(実際には連隊ではなく、大隊規模の部隊であったとの資料もある)また第7艦隊の第77機動部隊(TF77)が、沖縄を出港。TF77は米空母CV-45 “USS Valley Forge”を旗艦とし、英軽空母 “HMS Triumph”、重巡×1、軽巡×1、駆逐艦×10から構成され、空母ヴァリー・フォージにはCVG-5が搭載されていた。

7月2日になると中国人民軍が大規模な移動を開始。北朝鮮国境へ移動する部隊と台湾対岸へ移動する部隊とがあり、トルーマン大統領は中共軍の台湾への侵攻を阻止するため、第7艦隊の派遣を命じた。

7月3日に北朝鮮軍が漢江鉄橋の修復を完了し、戦車が漢江南岸へ入ると韓国軍は敗走を始める。また釜山には米陸軍の支援部隊が続々上陸し、防衛線を築く。一方この日の早朝、朝鮮海域へ到達したTF77の空母から、攻撃機が発進を始めた。トライアンフの攻撃隊、第82飛行隊のFirefly 12機と第800飛行隊のSeafire 9機が0545に38度線に近い海州に向け飛び立った。続いてヴァリー・フォージからは、VF-54のF4U-4B 16機とVA-55のAD-4 12機が0600に北朝鮮の首都、平壌を目指して発進を開始。そして少し時間をおいて、攻撃機の援護と攻撃地点の制空任務を担うVF-51のF9F-3が発進、目標に向かった。空からの攻撃は、あまり正確ではなかったが、北朝鮮に心理的に大きなダメージを与えた。なお、この日の攻撃で、VF-51のLeonald H. Plog 大尉が操縦するF9F-3(Bu.No.123071)が、平壌近郊の飛行場を機銃掃射中、迎撃に離陸するYak-9の主翼を吹き飛ばし、朝鮮戦争における海軍初の撃墜を記録している。艦載機のこうした攻撃は、7月半ば近くまで続く。


195074日に撮影されたCV-45 “USS Valley Forge”上で翼を休めるVF-52F9F-3

出典:US National Archive Photo. #HN-SN-98-07223


7月4日の早朝に北朝鮮軍は第4師団を先頭に南進を始め、韓国軍は水原を撤退してさらに南へ後退。米軍司令部は、烏山の死守を指示するも米・韓軍にとって状況は厳しくなる一方であった。

 7月5日になっても、北朝鮮軍の南下はいまだ緩まず、韓国軍とともに水原から撤退してきたスミス機動部隊も烏山で北鮮軍の戦車部隊に防衛陣を突破される。韓国軍も総崩れとなり、烏山も北朝鮮軍の手に落ちる。一方、新たに投入され釜山から北上してきた米陸軍部隊が大田に到着し、防衛線を築く。

ここまでが、朝鮮戦争開始後10日間の大まかな推移である。この後、7月7日には6月27日の国連安保理の決議をもとに、英仏両国の提案で、米軍を中心に16カ国軍25万人が参加する国連軍の創設が決まり、翌日にはマッカーサー元帥が国連軍の総司令官に指名された。

さて、ヴァリー・フォージとトライアンフであるが、平壌への攻撃の後、いったん補給のため、沖縄に戻るが補給後7月16日には沖縄を出港、ヴァリー・フォージとトライアンフは日本海側に進出した。



Valley Forgeの飛行甲板で発進の準備をするVF-52のF9F-3
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-428152

そして18日の朝、韓国の浦項から上陸する第1機甲師団を上空から航空警戒をして支援した。またこの日の午後遅く、攻撃機部隊が北朝鮮の元山の石油精錬所を攻撃し大きなダメージを与えた。18、19、22、25日に行われたその他のソーティは戦闘偵察が中心で、そのカバーエリアは、半島の東側では韓国の浦項から北朝鮮の威興の北まで、また西側では光州の北から北朝鮮の開城までに及ぶ広い地域が対象となり、そのターゲットも飛行場、鉄道、道路、工場、機関車、貨車、鉄橋、発電所、石油タンク、小型船舶、車両、地上兵と様々であった。さらに7月の26、28、29日には、黄海側から韓国の河東と咸昌邑にわたる地域を空軍の航空統制に従って、近接航空支援を行い、北朝鮮軍の地上軍を攻撃した。トライアンフの航空部隊も7月の22日を除いて、CVG-5と行動を共にしている。そして7月29日のミッションを終えた後戦線を離れ、7月31日に再び沖縄に戻った。


CVG-5の攻撃を受け噴煙を上げる元山の精油所
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-707876



攻撃の前、5”ロケット弾が積み込まれるVF-53のF4U-4B
出典:US Navy Official Photo Archive #NH96979

この間、本国でも動きがあった。孤軍奮闘するヴァリー・フォージとCVG-5を支援するため、TBM-3W/Sを装備するVS-23を搭載した護衛空母CVE-118 “USS Sicily”が、まず7月4日にサンディエゴを発った。またその2日後の7月6日にはCV-47 “USS Philippine Sea”がCVG-11を搭載して朝鮮海域を目指す。さらにヴァリー・フォージと交替で、オーバーホールのためサンディエゴに戻ってきたボクサーもオーバーホールを延期し、急遽輸送空母として任務を継続することになった。そのためボクサーはアラメダに回航され、そこで空軍のF-51 145機、L-5 5機、及びその他人員や軍需品、支援物資を搭載し、太平洋横断の路につく。そして7月14日、護衛空母CVE-116 “USS Badoeng Strait”が最後にサンディエゴを離れた。バーデン・ストレートには、7月7日に編成されたばかりの第1臨時海兵旅団が搭載されていた。この第1臨時海兵旅団は、第1海兵師団と第1海兵航空団(MAW-1)から派遣された部隊で構成されており、そのコアとなったのが、第5海兵連隊と第33海兵航空群(MAG-33)であった。航空部隊であるMAG-33には、それぞれ24機のF4U-4Bを装備する第214海兵戦闘飛行隊(VMF-214)、第323海兵戦闘飛行隊(VMF-323)、12機のF4U-5Nを装備する第513海兵夜間戦闘飛行隊(VMF(N)-513)、8機のOY-1/-2と4機のHO3S-1ヘリコプターを装備する第6海兵観測飛行隊(VMO-6)、及び2個のレーダ小隊が所属していた。

空軍では7月8日に極東空軍爆撃司令部が編成され、13日には第19爆撃航空群(19BG)に加え、本国の戦略空軍(SAC)から移動してきた第22爆撃航空群(22BG)と第92爆撃航空群(92BG)の指揮をとることになる。そして7月の末には、極東空軍にさらに第98爆撃航空群(98BG)と第307爆撃航空群(307BG)のB-29 が移動してくるとともに、第31戦略偵察航空群(31SRG)が編成された。そして8月に入り、北朝鮮の戦略目標への攻撃命令が下る。最初の爆撃は8月4日に実施され、操車場などが爆撃されるが、結果は十分ではなかった。しかし、8月12日以降の爆撃では戦略目標への爆撃が連日行われ、8月の末までには44の橋梁のうちの37までが破壊された。


USS Badoen Straitに積み込まれるF4U-4B
出典:US Navy Official Photo Archive #NH96995

遅れてサンディエゴを発った護衛空母、CVE-116 バーデン・ストレートは7月31日に神戸港に入港。先発したCVE-118 シシリーは既に神戸にあって、バーデン・ストレートの到着を待っていた。バーデン・ストレートは翌日、搭載してきたVFM-214とVMF-323のF4U-4B 48機を、戦闘に向けての整備のため、一旦大阪近郊の伊丹飛行場へ向かわせた。またVMO-6のOY-1/-2は伊丹経由で釜山へ空輸され、夜間戦闘機隊のVMF(N)-513は、第5空軍傘下に入ることが決まっていたため、バーデン・ストレートから九州の板付飛行場へ移動した。短期間での整備の後、シシリーは、VMF-214、VS-21を搭載、またバーデン・ストレートは、VMF-323を搭載し、釜山で苦戦を強いられている海兵隊地上部隊の支援に向かう。そして8月3日の早朝、VMF-214のF4U-4B 8機が焼夷弾やロケット弾を抱えてシシリーを発艦、初陣に向かった。ボーデン・ストレートの方は少し遅れ、8月6日に戦線に加わっている。

 一方、空軍のF-51などを載せ韓国に向かったCV-21 ボクサーは、太平洋を8日間という、驚異的な速度で横断し、7月23日に横須賀に入港した。そして搭載してきた航空機や機材を陸揚げすると、7月27日には横須賀を出港、すぐさまサンディエゴに舳先を向ける。軽量となった帰路はさらに速度を上げ、7日半という驚異的な速さで太平洋を横断しサンディエゴに帰港した。本来ならここでオーバーホールに入ることになるが、仁川上陸作戦支援のため、ここでも十分な休息をとることなくバージニア州のNASオセアナから移動してきたばかりのCVG-2を載せると、8月24日には再び朝鮮海域を目指した。

また、沖縄に戻ったヴァリー・フォージは、太平洋を越えてきたフォリピン・シーとここで合流する。これで海軍の航空兵力は大きく強化された。ヴァリー・フォージとフィリピン・シーは、8月4日に沖縄を発ち、翌8月5日には、CVG-5とCVG-2の艦載機群が、韓国に侵攻した北朝鮮軍に対し攻撃を開始する。この展開は8月20日まで続き、8月21日に再び沖縄へ戻る。釜山に追い詰められた国連軍支援は急務であったが、近接支援の航空統制が思いのほかうまくいかず、攻撃は必ずしも効果的ではなかった。この辺りが、作戦の主導権を握った空軍との確執にもなる。そうして、9月も半ばも近くなりボクサーが合流してきた。これで朝鮮海域に集まった空母は、米海軍のエセックス級が3隻、護衛空母が2隻、そして英海軍の軽空母が1隻と、強力な布陣となった。


HMS “Triumph” 写真は1950年の春に撮影されたもの
出典:US Navy Official Photo Archive #NH97010

釜山では、国連軍の地上部隊が苦戦を強いられていた。8月1日に米第8軍の司令官、ウォーカー中将は、洛東江を最後の拠点(釜山橋頭堡)とすべく全軍へ後退を指示した。洛東江のすぐ南は釜山である。そして北朝鮮軍は洛東江の渡河を開始した北朝鮮軍に対し米軍も反撃を行い、両軍の間で一進一退の激しい戦闘が続いていた。こうした中、8月12日にシャーマン海軍作戦部長とコリンズ陸軍参謀長が来日し、マッカーサー元帥と会談。マッカーサー元帥から提案されていたが仁川上陸作戦(クロマイト作戦)の実行について議論が交わされた。仁川上陸作戦は、釜山近郊に張り付いた北朝鮮軍の虚を突き、背後から大部隊を侵入させ、北朝鮮軍を挟撃しようとするものである。しかしながら、
①仁川港は潮の干満差が大きく(平均6.9m)、干潮時には港の周辺が干潟になってしまうこと。
②大部隊を揚陸させるには決行可能な満潮時の時間が短い。
③マッカーサー要求の部隊規模が、あまりにおおきかった。
④釜山から海兵隊の先鋭部隊を揚陸部隊に組み込む必要があり、作戦失敗時のリスクが大きい。
などの理由から、海軍、陸軍とも作戦遂行には否定的であったが、マッカーサーが押し切る形で仁川上陸作戦が発令されることになった。

 8月28日にマッカーサー元帥が正式にクロマイト作戦発動を命じ、上陸部隊の編成がおこなわれる。主力部隊は、新たに編成されるアーモンド少将を司令官とする米陸軍第10軍団、釜山守備隊の一翼を担う米海兵隊第1海兵旅団、そして日本駐留軍である米陸軍第7歩兵師団から1個連隊、この部隊を中核として7カ国の兵員約5万人の仁川揚陸急襲部隊が編成されることになった。また上陸作戦の遂行は、潮位が最も高くなる9月15日の満潮時(朝夕の2回)と決まる。作戦は揚陸の2週間前より進められ、まず斥候部隊により進入路の確認と敵情偵察が実施された。そして9月13日には、米海軍の重巡ロチェスターなどによる艦砲射撃と空海軍の航空機による射爆撃が、仁川港の湾口にある月尾島の北朝鮮砲兵部隊に対して繰り返された。これに対し、北朝鮮軍の反撃はわずかにあったものの、9月14日の射爆撃により、その反撃は鳴りを潜めた。

制空権のない北朝鮮軍は、徐々にその勢いが低下し、大邱や釜山の戦線でも国連軍が攻勢に転じていた。そして9月15日、朝鮮海域の米英空母6隻を含む大小230隻の艦船が動員され、大規模な仁川上陸作戦が始まる。満潮となった朝の6時30分、第1海兵師団の第5海兵連隊第3大隊が、月尾島西側のグリーン・ビーチへ上陸を開始、一部北朝鮮軍の反撃を受けたものの約1時間で全島を制圧。そして夕方の5時30分、2度目の満潮の時刻となり、今度は月尾島の東にあるレッド・ビーチに第1海兵師団の第5海兵連隊が、また南のブルー・ビーチには同じく第1海兵師団の第1海兵連隊が上陸を始めた。夜になって北朝鮮軍の反撃はおさまり、残る第10軍と第7歩兵師団は、ほぼ無抵抗の状態で上陸を終える。この日のうちに仁川に上陸した兵士は、約2万5千名に上った。

明けて9月16日、上陸した米軍部隊は進撃を続ける。第1海兵連隊は仁川からソウルへの道路制圧に、また第5海兵連隊は金浦飛行場奪還へと動く。そしてこの日スレッジ・ハンマー作戦が発動され、各地で国連軍の大規模な反撃が始まった。大邱では米第1軍団と韓国第2軍団が、また釜山でも米第8軍団が北朝鮮軍に対し、大規模攻勢をかける.


仁川にLSTで上陸する連合軍
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-420027

9月17日午前9時30分、マッカーサー元帥が仁川に上陸し、前線を視察。第5海兵連隊は金浦飛行場に近づき、数度にわたる北朝鮮軍の反撃を受けるも、守備隊を殲滅し、深夜には飛行場の奪還を果たす。奪還した金浦飛行場には、翌日になると米軍機が次々と着陸を始めた。また第1海兵連隊は、ソウルへ向けさらに東方に進撃。そして第7歩兵師団は南進し、水原を目指した。こうして仁川上陸作戦は、戦況を大きく転換させることになる。釜山へ戦力を集中し南に長く延びた補給路を断たれた北朝鮮軍は、国連軍の攻勢に会い、各所で敗走することになる。



CV-21 “USS Boxer”と上空を飛行するVC-3の夜間戦闘機F4U-4N
出典:US Navy Official Photo Archive #80-G-433005

9月20日になって、ソウルに向かっていた第5海兵連隊は、戦車12両を先頭に漢江の渡河を開始し、夕方にはソウル郊外に到達。しかし、ソウル市内の北朝鮮軍は依然強い抵抗を示し、その激戦は26日を過ぎても続いた。その間国連軍も、第1海兵連隊や陸軍第7歩兵師団の第32連隊などが漢江を渡河してソウル市内に入り、各所で北朝鮮軍守備隊と激戦を演じた。そして26日、マッカーサー元帥は、ソウル奪還を発表。実際にはその後も北朝鮮軍の抵抗は続いたが、9月の末にはそれも収まった。



奪還されたソウル市内。両手を挙げるのは北朝鮮軍の捕虜
US Navy Official Photo Archive #NH96974

また、ソウルから少し南の水原やさらに南の群山、そして釜山でも国連軍が北朝鮮軍を圧倒し始め、水原や群山の飛行場が奪還される。一方敗色濃厚となった北朝鮮軍は、9月23日に全軍撤退の指令を出した。これにより北朝鮮軍は38度線目指し撤退を始めるが、統制を失った部隊は混乱に陥り、降伏し捕虜となるもの、山中に逃れゲリラ化するもの多数で、本国に帰還できたものは約9万8千のうち約2万5千と言われている。

 さてヴァリー・フォージとCVG-5であるが、8月26日から9月21日の間、黄海でミッションを行っている。この間のミッションは韓国内の北朝鮮軍への攻撃や味方地上軍への近接支援が中心となった。特に後半は仁川上陸作戦もあり、ジェット機は敵地上軍への機銃掃射や敵地上空のCAP飛行、プロペラ機は月尾島や、仁川、そしてソウルの北朝鮮地上軍へのロケット弾や爆弾による直接攻撃が増えた。この間の全ソーティ数は、F9F-3が395ソーティ、F4U-4BとAD-4などプロペラ機が1,142ソーティとなっている。またコンバット・ロスも4機が記録されており、そのうちの1機は、北朝鮮軍の対空砲火を受けたF9F-3であった。
(この章終わり)

参考資料(朝鮮半島の地図)


本章に関連する機体の塗装

 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/ B-29を除く)



Source: ‘MiG Alley- Air to Air Combat Over Korea’
By Larry Davis, A Squadron/Signal

North American F-82G(46-383) of 68F(AW)S in 1950

Yak-9P of North Korea Air Force in 1950

Source: ‘SupermarineSpitfire’ AJ Press,
Monografie Lotnicze 40, Wojtek Matusiak

Supermarine Seafire FR.47 of VP492 of 800 SQ, HMS Triumph in 1950



© Rick Kent
Fairey Firefly F.R. Mk.1 of 827 SQ, HMS Triumph in 1950


© Mark Styling
Boeing B-29A Super Fortress of 19BG/93BS in 1950
出典:http://home.comcast.net/~noseart/0noseart.html



 

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