1950年代末期各国のジエット戦闘機開発チームではM2クラスの戦闘機の開発及び運用のメドが立ち次なるトレンドを模索していた。
冷戦時における航空作戦におけるイベントとしては核兵器を相手国に投下するのが最たるものではあったが核ミサイルが戦列化されるとメインイベントは開戦初頭における航空基地への侵入攻撃へとシフトした。
このような戦略の変更を受けて滑走路を攻撃されても脇の芝生や残った滑走路の一部を使い作戦行動が可能なVTOL機やSTOL機の開発が新しい航空関係者の間で新しいトレンドとなり新たな技術開発が繰り広げられた。
当時のソ連でもミグ設計局が機首に大型のレーダーを持ち胴体両側にエアーインテークを設け胴体にリフトエンジンを搭載しミラージュⅢに似た形状のSTOL機「23-01」を試作したが飛行中は単なる邪魔物にしかならないリフトエンジンが災いし14回の試験飛行を行っただけで開発は中断された。
中断されたリフトエンジン方式の替りに短距離離着陸のアイデアとして浮上したのが可変翼機構であった。
直線翼で離陸すれば滑走距離を短くでき、後退翼にすれば高速を出せる一石二鳥の技術であるが複雑な機構や機体の重心位置の変化等西側の開発チームでも頭を抱えていた技術では有ったが1965年以降アメリカで可変翼機として初飛行の成功を収めたF-111の技術情報が様々なチャンネルを通じてソ連に入ってくると軍部はミグ設計局に可変翼機開発の指示を与えた。
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これを受けミグは開発を中断した「23-01」の機体に可変翼を取り付ける作業に取り掛かったが思ったほど簡単には行かず機体は新たな設計の物となり共通点はコクピット周りからレドームへと続く機首部の形状のみとなった 可変翼の採用で主翼の取り付け位置は肩持ちしきとなりエアーインテークもベトナム戦争で撃墜されたF-4の物を回収したものを参考にした可変ランプの物を採用しスムーズに超音速飛行への移行が可能な機体になった。
開発名が「23-11」と変わった可変翼機構の試作機は1969年に初飛行し名称もMig-23となり様々な飛行試験を終えて1972年にMig-23Mとして多くの機体がソビエト空軍の戦術戦闘機として配備が開始された。
当然ワルシャワ条約機構やソ連と友好関係にある中東やアジア・アフリカ諸国へも輸出がされたが俗にモンキーモデルと呼ばれる本国の機体より性能の劣る機材を装備した機体が当初引き渡されたが1977年以降は本国仕様と同じ性能を持った機体が引き渡されるようになり21世紀になっても東欧の一部の国やアフリカでも使用が続けられている
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