Home >今月のハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part 7                                                    Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama

Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後

時計の針を少し戻し、朝鮮戦争前のヨーロッパに目を向けてみる。ヨーロッパでは分割占領されたドイツの首都ベルリンで1948年6月にソ連軍が西ベルリンへの陸路を完全遮断した。いわゆるベルリン封鎖である。これに対抗したのが米国で、封鎖された西ベルリン市民に対し、生活物資を大量に空輸してこれを助けた。こうしたソ連の一連の行動に対応するため、米、英、仏を中心とする大西洋を挟んだ軍事同盟が、1949年4月4日、北大西洋条約という形で締結され、その結果北米、西ヨーロッパ諸国による軍事機構(NATO)が生まれる。当然ソ連を中心とする東欧諸国はこれに対抗、1955年5月14日にワルシャワ条約を締結し、ワルシャワ条約機構を発足させた。ヨーロッパにおける東西冷戦の始まりと言える。

極東では、3年間続いた朝鮮半島での戦いがようやく鎮火し、東アジアにも再び平和が戻ってきた。しかし、焦土と化した朝鮮半島の復興には多くの時間を要することになる。またあくまで戦いは停戦したに過ぎず、南北軍事境界線となる北緯38度線を挟んでの緊張は依然として続いていた。

こうした東西における冷戦の深まりは、米ソを中心とする軍拡競争に一段と弾みをつけることになり、核兵器を含む戦略兵器の開発に拍車がかかった。空軍の戦略爆撃機に対し、遅れながらも海軍が取り組んだのは、朝鮮戦争でも抜群の機動力を発揮した空母並びに艦載機の攻撃能力の向上であった。表7-1に朝鮮戦争終了時点における米海軍の空母の状況を示す。


表7-1 朝鮮戦争終了時点での米海軍航空母艦の状況                          


注)表中空母航空群の名称の後に記した()内の記号はCVGのテイルレターを示す

朝鮮戦争の勃発によりエセックス級空母が12隻復役し、空母の隻数としては増加していたが、艦載機の高性能化、大型化にも対応する空母を必要とした。このため海軍が採った施策は、一つがエセックス級空母の近代化改修、そしてもう一つが超大型空母の建造であった。表7-1でも分かるように、2隻の超大型空母、フォレスタルとサラトガについては、朝鮮戦争中に建造が始まっている。またエセックス級空母の近代化改修は、早い艦では朝鮮戦争前の1947年からスタートし、戦争中に改修を受ける艦もあった。この時期におけるこれらの改修は、SCB-27A、SCB-27C、そしてSCB-125と呼ばれるものであった。エセックス級空母の近代化改修履歴を表7-2に示す。

表7-2 エセックス級空母の近代化改修履歴                                    


一方フォレスタル級の新鋭大型空母の就役が進むと、小型のエセックス級空母(CVA)に余剰艦が出始めた。これは当時の米海軍の攻撃型空母編成構成に基づくもので、14~16隻を維持する計画を超え出したことによる。このため、余剰となったエセックス級空母は対潜空母(CVS)に改称され、対潜水艦作戦に就くことになった。また当時増大するソ連の潜水艦が空母機動部隊にとって大きな脅威となり出したことも、それを加速することになる。表7-2のCVS転換時期を見て分かるように、近代化改修を受けたエセックス級の大半の空母が対潜空母に転換された。こうしたCVSの登場は、当然その航空部隊である、対潜空母航空群の編成につながり、1960年4月1日には米海軍初の対潜空母航空群(CVSG)として第53対潜空母航空群(CVSG-53)が、カリフォルニア州のノースアイランド航空基地に編成された。


それではエセックス級空母の近代化改修とはどのような内容であったのかを、簡単に紹介しておく。表7-2に示した近代化改修では、以下のような工事が施されている。

     ⅰ)SCB-27A/C共通事項
① 飛行甲板の構造強化
② エレベーターの能力向上、及び後部エレベータを飛行甲板中央から左舷舷側に移動
③ カタパルト及び、アレスティング・ギアの能力向上
④ 飛行甲板にあった5インチ砲を撤去、代わりに新しい5インチ砲を飛行甲板の側面に設置、また3インチ砲を、近接信管を備えた弾丸が発射可能な40mm砲に置き換える。
⑤ 艦橋を再設計し、レーダーや通信アンテナを艦橋の上に設置
⑥ その他、航空燃料や兵器の積載量を増加
などの改修が加わり、重量や排水量が増加し、最大速度が31ノットまで低下した。

       また、SCB-27A/Cの差異は以下のとおりである。
① SCB-27AではH8油圧カタパルトであったものが、SCB-27Cでは英国が開発したC11スチーム・カタパルトに変更
② SCB-27Cでは艇体の幅がさらに広がり、重量も増した。
③ SCB-27Cでは飛行甲板にジェット排気のデフレクターを設置するとともに、飛行甲板の冷却設備、緊急時の捕捉バリアー、及びその収納装置が追加された。
④ SCB-27Cでは核兵器の取り扱いが可能となる。
⑤ SCB-27Cでは、左舷舷側に移った後部エレベータが、より艦尾よりに移動

     ⅱ)SCB-125
① アングルド・デッキ型飛行甲板への変更
② 飛行甲板最前部を艦首上部構造と一体化したハリケーン・バウへの変更
③ さらに能力の高いC11-1スチームカタパルトとMk.7アレスティングギアへの変更


下の写真は、1953年1月14日、ヴァージニア岬沖を航行するCVA-36 USS Antietam である。見てのとおり、アングルドデッキ化されているが、ハリケーン・バウは備えていない。このため表7-2にも示したようにアンティータムはSCB-125の適用艦にはなってない。アンティータムのアングルドデッキは、正規のSCB-125に基づくものではなく、アングルド・デッキの運用評価用に改修されたものである。


ヴァージニア岬沖を航行するアングルドデッキのCVA-36 “USS Antietam”
出典:US Navy Official Photo Archive Photo# NH97364

また次の写真は、1959年4月27日にSCB-125の改修を終える直前、サンフランシスコ海軍造船所を離れるCVA-34 “USS Oriskany”である。艦首がハリケーン・バウとなり、上のアンティータムとの違いがよく分かる。



サンフランシスコ海軍造船所を離れるCVA-34 “USS Oriskany”
出典:US Navy Official Photo Archive Photo# NH97410


一方フォレスタル級の大型空母であるが、これは海軍の悲願でもあった。1949年、米国はソ連への対抗兵器として国防予算縮減の中「戦略爆撃機か超大型空母か」という論戦を、海軍と創設されたばかりの空軍との間で繰り広げた。この渦中にあったのが、第47代海軍長官から初代の国防長官となったJames V. Forrestalであった。結局、空軍の巻き返しで戦略爆撃機に軍配が上がり、この戦いは空軍の勝利に終わる。この結果、空母を推していたフォレスタルは、精神的疲れから病に陥り、失意の中長官を辞す。その後フォレスタルは、ベセスダ海軍病院に入院するが療養中に自らの命を絶つという最悪のシナリオで自らの人生を締めくくり、海軍関係者には大きなショックを与えた。

そして3年、朝鮮戦争での空母機動部隊の活躍もあり超大型空母計画が復活、1952年7月14日にバージニア州のニューポート・ニューズ造船所で超大型空母の1番艦の建造が始まる。それから約2年半、1954年12月11日に進水したCVA-59には”USS Forrestal”と命名された。満載排水量が8万トンを超えるこのだ1世代の超大型空母は、フォレスタル型空母として、以降CVA-60 “USS Saratoga”、CVA-61 “USS Ranger”、CVA-62 “USS Independence”の4隻が建造された。そしてヴェトナム戦争の始まる1964年までには、第2世代の超大型空母となるキティー・ホーク型のCV-63 “USS Kitty Hawk”、CV-64 “USS Constellation”までが就役した。そして注目すべきは、1961年11月25日に就役した初の原子力空母CVN-65 “USS Enterprise”である。満載排水量は9万3千トンを超えるこのマンモス空母は、原子力空母の実証艦となり、その後の空母建造計画に大きな影響を与えた。



完成したCVA-59 “USS Forrestal” 1955年
出典:US Naval Historical Center Photograph # NH85667

次に朝鮮戦争停戦後からヴェトナム戦争勃発前(1954年~1963年)までのCVG-5の動向を眺めながら、米海軍航空部隊や艦載機の変遷について触れてみたい。表7-3~表7-21にこの期間のCVG-5編成の推移を示す。これら一連の表は、本土帰還時と洋上展開時の編成を時系列的に示したものである。この時代の約10年は、大型空母や数多くの新鋭ジェット艦載機の出現とともに空母航空群の再編などが進み、空母航空部隊の近代的運用体系の基盤が出来上がった時代でもある。

これらの表7-3~7-8は1957年頃までの編成を示したものである。朝鮮戦争中と同様に空母航空群の中には、依然他の航空群に派遣され本隊と別行動をとる飛行隊が存在していたことが分かる。例えばCVG-5の一例をあげると、表7-3のように1953年10月の時点では、本隊は本国に帰還しているにもかかわらず、VF-52はATG-1に派遣され、CVA-21ボクサーとともに西太平洋に展開していた。これは朝鮮戦争時、不足する空母航空群を補うため編成した非正規の航空群(ATG)が停戦後も残存したことによる。こうした状況は、ATG-1~ATG-4が解隊される1958年まで続いた。ATGの解隊は海軍の空母航空群再編計画に基づくもので、1958年7月1日に始まる会計年度より①訓練空母航空群を東岸と、西岸にそれぞれ1個航空群を新編する、②空母へ搭載する空母航空群を継続的に同一航空群とする、③重攻撃航空団を解隊し、フォレスタル級、及びミッドウェイ級空母搭載航空群指揮下に重攻撃飛行隊(VAH)を配する。(VAHについては後にもう少し詳しく述べる)但し、エセックス級空母搭載航空群については重攻撃飛行隊の分遣隊を配置する、等といったことが実行に移された。このためCVG-5は1957年のCVA-31 ”USS Bon Homme Richard”との西太平洋展開を最後に、以降はCVA-14 “USS Ticonderoga”と行動を共にするようになる。

但し、表7-17、7-18にある、1962年7月~9月までのCVA-63 “USS Constellation”とCVA-16 “USS Lexington”との航海は非常にイレギュラーなものであった。コンステレーションは就役後の公試で火災を起こし、修理を終えた後1962年2月にCVG-13とともに復帰後最初の運用に入った。しかし自身が、6月に太平洋艦隊へ転属となるとともに搭載していたCVG-13が解隊されることとなる。一方、コンステレーションと交代に太平洋艦隊から大西洋艦隊に転属となるレキシントンは、1962年5月12日にCVG-14を載せ、サンディエゴへ到着した。このため次のクルーズまで時間のあるCVG-5が両空母に分乗することになった。コンステレーションはフロリダ州のメイポートでCVG-5の飛行隊を載せ、7月25日にサンディエゴに向け出港、レキシントンは、7月21日に残るVF-54ら2飛行隊を載せ、フロリダ州のペンサコラへ向け出港するという珍しいケースである。


表 7-3 1953年10月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表


表 7-4 1954年3月12日~1954年11月19日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成



表 7-5 1955年8月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表


表 7-6 1955年10月29日~1956年5月17日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成




表 7-7 1956年11月20日時点でのCVG-5の飛行隊編成表



表 7-8 1957年7月12日~1957年12月9日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成



表 7-9 1957年12月9日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




表 7-10 1958年10月8日時点でのCVG-5の飛行隊編成表



表 7-11 1959年7月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




表 7-12 1960年2月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




表 7-13 1960年3月5日~1960年10月11日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成




表 7-14 1960年7月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




表 7-15 1961年5月10日~1962年1月15日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成




表 7-16 1962年1月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




表 7-17 1962年7月25日~1962年9月17日までの南大西洋展開時のCVG-5の編成



表 7-18 1962年7月25日~1962年9月17日までの南西大西洋展開時のCVG-5の編成



表 7-19 1963年1月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表



表 7-20 1963年1月3日~1963年7月15日までの西太平洋展開時のCVG-5の編成




表 7-21 1963年7月1日時点でのCVG-5の飛行隊編成表




958年に実施された空母航空群の改編については既に述べたとおりであるが、その前に空母航空群の飛行隊の編成についても変革が行われている。空母航空群の基本構成は、戦闘飛行隊(VF)と攻撃飛行隊(VA)で、これに洋上展開時には夜間戦闘・攻撃、早期警戒、電子戦、対潜などの特殊任務をもった混成飛行隊(VC)の分遣隊が派遣されるというものであった。しかし、空母航空群の改編のところで述べたように、朝鮮戦争停戦後の数年間はATGが存在し、その派遣飛行隊の問題もあり、戦闘飛行隊と攻撃飛行隊の構成比は、戦闘飛行隊に偏ったものであった。空母航空群の改編に先立ち、こうしたVFとVAの構成比を是正する対策も取られ、1956年後半にはバランスのとれた編成となっている。CVG-5でも表7-7で分かるように、VF-54がVA-54に改編されるとともにVA-56 が新編されVFとVAの個数が同数となっている。但し、VF-54は元々AD-6スカイレーダを使用していたので、VFとは言えVAのミッションをこなしていた。この辺は、戦闘機と攻撃機という運用上の線引きもまだ明確化されてなかった時代の流れかもしれない。また使用機の構成を見ても、戦闘飛行隊には、新鋭機が配置され、攻撃飛行隊には戦闘飛行隊から回された機体が使用されている。こうした問題の解消は、1957年のVA-56に配備されたF9F-8や、1958年にVA-55,VA-56に配備されるFJ-4Bの配備を待つしかなかった。F9F-8 は既に55年にVF-51に配備された後退翼を持つF9F-6クーガーの発展型で、シリーズ最高の性能を誇るとともに2,000lbまでの爆装能力を有していた。加えて、搭載された火器管制装置ACS Aero 5Dと空対空ミサイルAAM-N-7(後のAIM-9)サイドワインダ―との組み合わせで制空戦闘能力も向上した。またFJ-4Bは、56年にVF-53に配備されたFJ-3Mヒューリの発展型で、空力的改善に加え、主翼構造の強化によりウェポン搭載能力を増強した機体である。このため、AAM-N-7×4と3,000lbの爆弾が搭載可能となったほか、空対地ミサイルASM-N-7ブルパップや戦術核兵器の搭載も可能となり、本格的艦載攻撃機の礎を築いた。しかし、サイドワインダーの運用は、この時期全飛行隊に行きわたっておらず、CVG-5の飛行隊がその能力を付与されるのは、1959年まで待たねばならなかった。(VF-51とVF-53が運用可能となっている)


USS Bon Homme Richard艦上のVF-51のFJ-3 (1957年).
出典:http://www.logbookmag.com/gallery.asp?CatID=33


また1956年には、上述した特殊任務の混成飛行隊(VC)の改編が行われている。そして1950年代の後半にはこの他にもいくつかの呼称変更が実施されている。1956年7月2日付で混成飛行隊の中でも空母航空群に配備される艦載特殊任務飛行隊の大半の部隊呼称が変更された。これら特殊任務飛行隊とは、夜間戦闘、早期警戒、電子戦、写真偵察、対潜を任務とした混成飛行隊であり、
VC-3、VC-4、VC-33、VC-35、VC-11、VC-12、VC-61、VC-62がこれにあたる。そして呼称変更後は、全天候戦闘飛行隊(VFAW)、全天候攻撃飛行隊(VAAW)、空母早期警戒飛行隊(VAW)、軽写真偵察飛行隊(VFP)へと変更された。表7-22に各飛行隊の解隊までの呼称と任務の変遷を示した。これらの飛行隊はCVG-5へも分遣隊を派遣しており、表7-8に示すように、1957年7月~12月までの西太平洋展開時には、これらの飛行隊の呼称が新しくなっていることが分かる。


表7-22 特殊任務飛行隊の呼称と任務の変遷


またこの時期、空母航空群や独立航空群、飛行隊の識別コード(IDコード)の変更が行われている。1957年7月に実施されたこの変更により、CVG-5は”S”から現在と同じ”NF”に変更された。空母展開時に派遣される分遣隊は本隊のコードを付けているため、空母航空群の一員かどうかも見分けることができる。分遣隊には本隊の呼称の後にアルファベットで派遣先別コードを付けるが、CVG-5の場合はDetachment Bravo(Det.B)と付された。例えば、第61軽写真偵察飛行隊がCVG-5に展開した場合は「VFP-61 Det.B」のような表記となる。但し、空母が大型になった場合にはこうした飛行隊も分遣隊ではなく、飛行隊として空母航空群の指揮下に入るため、Det.の文字も外され、テールコードにも空母航空群と同じコードが記入されることになる。

海軍が攻撃飛行隊の強化に取り組んだことを述べたが、もう一つ攻撃力の増強で見逃せないのが、重攻撃飛行隊(VAH)の配備である。この時期CVG-5にも1957年になるとVAH-2のA3D-2スカイウォーリアが派遣され、戦略核攻撃能力を保有することになる。この大型の双発ジェット艦上攻撃機は、レシプロの双発艦上攻撃機AJ-1サヴェージの後継機として開発された。AJ-1の時代には、この大型の艦載機はミッドウェイクラス以上の空母でしか運用できず、エセックス級空母しか持たない太平洋艦隊では陸上基地に配備し、必要時のみ空母に載せるという運用方法が採られた。このため、太平洋艦隊ではAJ-1を装備するVC-6の分遣隊が厚木基地に展開した。しかしその後、エセックス級空母のSCB-27改修が進み、A3Dが配備される頃には太平洋艦隊でも大型艦攻の運用が可能となった。


CVA-14 USS Ticonderoga から発進するVAH-4 Det.BのA3D-2(1961年8月)
出典:http://www.navsource.org/archives/02/14b.htm



こうしてCVG-5の近代化も進み1958年にはVF-51にF11F-1タイガーが、またVF-53には全天候戦闘機のF3H-2デモンが配備され、全飛行隊ジェット化される。F11F-1はエリアルールを採用した超音速戦闘機で、運動性、操縦性も良好なためブルー・エンジェルスにも採用された。またレーダもAN/ APG-30Aを装備し、制限付きながら全天候戦闘機で、20mm Mk.12 機関砲4門を備えAAM-N-7サイドワインダーも4発搭載できる能力があった。しかし搭載予定のJ65エンジンの開発遅れから、後発のF8U-1クルーセイダーに海軍昼間戦闘機の主力の座を奪われることになる。このため総生産機数も201機と少なく、CVG-5でもVF-51に約1年間配備されただけで、F4D-1にその座を引き渡した。一方、VF-53に配備されたF3H-2デモンは、J71-A-2エンジンの単発ながら大型の全天候戦闘機で、固定武装として20mm機関砲4門を備え、AAM-N-7サイドワインダー4発、もしくはセミアクティブ誘導のAAM-N-6スパローIIIミサイルを搭載できた。しかしこの戦闘機もエンジンで苦しみ、結局全天候型のF8U-2EクルーセイダーやF4H-1ファントムIIの戦力化に連れ、退役を余儀なくされ1964年末には一線から姿を消した。



USS Ticonderogaの飛行甲板に駐機するCVG-5所属機(1961年)
出典:http://www.navsource.org/archives/02/14b.htm




こうしてCVG-5には次々と新型機が配備され、1959年に入るとVF-51にはF11F-1に代わり全天候戦闘機のF4D-1スカイレイが配備、またVA-55とVA-56が新鋭の小型艦上攻撃機A4D-2スカイホークを受領した。F4D-1は、海軍初の無尾翼デルタ機で航続距離は短かったが、高速性能には秀でたものがあり、まだ試作機ながら1953年10月3日に3kmコースで、また同月16日には100kmコースで世界速度記録を樹立しており、海軍機では初めての記録保持者となった。また1958年5月22日には量産機が上昇記録を樹立した。こうした高速性能は空軍からも注目され、F4D-1を装備するVFAW-3が、防空軍団ADCの一翼を担うことになった。CVG-5では1959年から60年にかけてVF-51に配備され、F8U-1クルーセイダーを受領するまで使用された。またA4D-2スカイホークは、小型ながらウェポンの搭載量も多く、戦術核兵器も搭載可能であった。小型の故折畳み翼も持たず、堅牢、簡易なシステムは空母での運用に適したものであった。反面電子機器や航法装置の面での弱点があったが、それを上回るハンドリング・クオリティで艦載攻撃機のベストセラーとなった。このため、CVG-5でも1959年に配備が始まり、その後型名が更新されるも長年にわたり使用され続けた。


USS BonHomme Richardに着艦するVF-141(CVG-5)のF4D-1(1957年)
出典:US Naval Historical Center Photograph # NH97347




タイコンデロガの#3エレベータ上のVA-56のA4D-2(1960年12月)
出典:http://www.navsource.org/archives/02/14b.htm



そして1960年10月にF8U-1クルーセイダーがVF-51に配備される。F8U-1は、その試作機XF8U-1が初飛行で音速を突破するという偉業を打ち立てた。開発も順調に進み、その実用機F8U-1は、ライバル機F11F-1をしり目に受注機数を増やしていった。F8U-1は昼間戦闘機であったが、AN/APS-67 FCレーダを備えたF8U-1Eは制限付き全天候機としての地位を固めた。そしてその後FCレーダをAN/APQ-87に更新し、エンジンをより強力なJ57-P-20に換装した全天候型のF8U-2N、そしてさらに性能を向上させた最終型F8U-2Eが生産された。VF-51が最初に受領したのは初期のF8U-1であったが、1962年の初めには最新型のF8U-2NEに更新されている。1962年に一時的にF4H-1ファントムIIがVF-53に配備されたが、すぐにVF-53はCVG-5から移動、代わりにF-3Bデモンを装備したVF-54がCVG-5に編入されている。



USS Ticonderogaに着艦するVA-55のA-4C(1963年)手前はVAH-4 Det.BのA-3B
出典:US Navy Official Photo Archive Photo# KN5442



朝鮮戦争が終わって10年、その後の東アジアは台湾海峡危機が数度にわたって起こり緊張が走ったものの、紛争には至らず、比較的平和裏に推移してきた。しかし、東ではキューバ危機、インドシナでも共産ゲリラの活発化が伝えられ、少しずつ暗雲が漂い出した。そんな中、1963年12月20日に米海軍は攻撃空母航空群(CVG)を、攻撃空母航空団(CVW)に改称、CVW-5の名が誕生したのである。
(この章終わり)


本章に関連する機体の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/)


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Grumman F9F-6 Cougar of VF-51 in 1953


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Grumman F9F-6P Cougar of VC-61 in 1955

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Douglas AD-6 Skyraider of VF-54 in 1956


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Grumman F9F-8 Cougar of VA-56 in 1957


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

North American FJ-3M of VF-51 Fury in 1958


© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Chance Vought F8U-1P Crusader of VFP-61 in 1959

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

McDonnell F3H-2 Demon of VF-53 in 1961

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Chance Vought F-8E Crusader of VF-51 in 1962

© Michael E. Fader, www.wings-aviation.ch

Douglas A4D-2N Skyhawk of VA-55 in 196

 Home >今月のハイライト>CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 

Vol.18 2010 June.   www.webmodelers.com /Office webmodelers all right reserved /editor Hiromichi Taguchi 田口博通
  無断転載を禁ず  リンクフリー
「webモデラーズ について

資料記事

TOTAL PAGE