P-80に次ぐジエット戦闘機として開発されたリパブリックF-84「サンダージエット」はその大きな搭載量を生かした戦闘爆撃機として朝鮮戦争では勇名を轟かせたが戦闘機としては後退翼を持つミグ15に劣り早々にB―29の護衛任務を解かれ地上攻撃の任務に専念することとなった。
実はリパブリック社は後退翼の利点に着目しておりサンダージエットの試作機が初飛行する直前にドイツから入手したと思われる後退翼の技術を用いた新型戦闘機を空軍当局に提案したがWW2直後の軍縮期で当局は初め関心を持たなかったがF-86が後退翼を採用して成功したのを見て再度リパブリック社の後退翼を取り付けたF-84性能向上型に関心を寄せた。
さらにメーカー側が提示した既存のF-84の生産設備の55%が流用可能でコストを抑えられ最大速度は1.180キロ・搭載量は現行生産型のF-84Eの倍の3.600kgに向上した性能に魅力を感じ1949年にYF-96Aの名で試作を承認した。
YF-96は既存のF-84Eに40°の後退翼を取り付けられ1950年6月に初飛行を行った。
最大速度1、059km・10,670mまで14,8分もかかる始末だった。この結果を知った空軍は失望した。
リパブリック社は低性能の主因はエンジンのパワー不足の為であり強力なエンジンに換装すれば目標達成は可能と食い下がったが空軍による同機の開発優先順位は大きく引き下げられてしまった。
しかし1950年5月に勃発した朝鮮戦争で状況は一変する
大きな航続距離と搭載量を持つ戦闘爆撃機の必要性を認めた空軍はYF-96をYF-84Fに改称して本格的に開発する事を決定した。
ここで機体の名前をF-84Fに改称した理由は予算の掛かる新規開発の機体では無く既存の機体からの発展型であり時間もコストも押さえられると議会に説明し予算を獲得するために用いた手法である。
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1951年2月14日に初飛行したその姿は直線翼機のサンダージエットとの共通性はキャノピーとエアーブレーキそして機体フレームの一部のみとなり当初メーカーが強調した直線翼型との共通性は55%と言う利点は消滅していた。初飛行をしたF-84Fであるがちょうどアメリカのジエットエンジン開発の混乱期に当ってしまい巧くマッチングするエンジンが見つからずさらに空軍から指定されたライトJ-65-W(英国製サファイアエンジンのライセンス型)の安定供給までに長い時間が必要になったことに加えてエルロンの効き不足やその他機体システムの不調等で開発時間が延び実戦機として認められ部隊配備が決定されたのは1954年5月であった。
部隊配備されたF-84FはSAC(戦略航空団)を初めTAC(戦術航空団)やANG(州空軍)等へ逐次配備されたが第一線部隊での運用は短くANGを除いて1960年までにTACではF-100・101等に交代しSACもB-52が実戦化されると機体をTACに譲り第一線部隊から静かに消えていった。
アメリカ本国での活動はANGを除いて短い期間で終わってしまったが軍事援助としてNATO諸国に配備されたF-84Fはその搭載量と長い航続距離を生かし西ドイツの450機を初め多数の機体が長い年月間第一戦機としてベルギー・オランダ・イタリア・ギリシャ・トルコで運用された。
またNATO脱退前にフランスが調達したF-84Fは1956年のスエズ動乱で唯一実戦投入を記録している
NATOに配備され欧州では長きに渡り運用されてきたF-84Fではあるが日本人に馴染みが無いのはアメリカ空軍での主任務が有事の際ソ連やワルシャワ条約機構加盟国への戦術核による攻撃である為、唯一の被爆国である日本へF-84Fが飛来した時の反応を考慮して当局がアジア太平洋地域への配備を躊躇ったのではないかと推測される
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