1950年アメリカ空軍はTAC(戦術空軍)向けに配備する「最大速度M1・5を持ち制空と核攻撃能力を持ち合わせた次期戦闘爆撃機」の要求を各航空機メーカーに提示した。
その要求に応えたメーカーの一つであるリパブリック社は翌1951年に当時生産中であったF-84F「サンダーストーリーク」の発展型で機首にレーダーを持ち胴体内に大型の核爆弾を搭載可能な新型機を提案した。
1952年9月に正式に空軍との開発契約を結び1955年には実戦化するスケジュールで開発が始まった。しかし1953年に朝鮮戦争が終わると大量に発注された注文は削られ15機まで減少されたが冷戦が激しくなるとと開発は続けられ1955年10月に原型1号機であるYF-105Aが初飛行した。
後のF-105の特徴であるエリアールールや楔型のエアーインテークは採用されていないが初飛行時に超音速を越え期待の高性能をアピールした。 |
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1956年にはエリアールールと強力なJ75エンジンを採用したYF-105Bが最高速度M2を記録し量産型として生産される事となり2年間のさらなる開発時間を経て1958年に部隊配備された。
当時最新の火器管制装置を搭載した為か実戦部隊での可動率は低く僅か2個飛行隊に配備されたにとどまった。
YF105Bが初飛行した時から指摘されたエンジンの推力不足の改善と更なるアビオニクスの改良を施した本命とも言えるF-105Dが1960年9月に登場しTACの屋台骨を支える事となった。また核戦略の変更に伴い核兵器の搭載用に胴体内に設けられた兵器庫には燃料タンクが追加されさらに胴体下にはマルチエジェクターラックが取り付けられて通常戦の戦術機として完成された。
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