Home >今月のハイライト> CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第12話 (Rev.C)


CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part12 Rev.C                           Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama
(Rev.C 改訂版掲載 2012年1月8日)
Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第11話 ヴェトナム戦争(中編-3)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第10話 ヴェトナム戦争(中編-2)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第9話 ヴェトナム戦争(中編-1)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第8話 ヴェトナム戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第12話 ヴェトナム戦争(後編)

話はさかのぼるが、空母CVA-41“USS Midway”が近代化改修のためサンフランシスコ・ベイ海軍造船所に入渠したのはヴェトナム戦争が本格化する前の1966年2月11日のことであった。そこで4年に及ぶ大改修を受け、13,000トン排水量の増した艦は見違える姿に変貌した。そして1970年1月31日に現役に復帰する。改修された空母ミッドウェイは、直ぐにはヴェトナムには展開せず、1971年の初めまで約1年間の準備期間をとり、造船所による海上公試、そしてCVW-16を載せての空母適合性試験、運用試験などが実施された。


サンフランシスコ・ベイ海軍造船所で改修を受ける空母ミッドウェイ

出典:


一方、CVW-5でも大きな編制替えが実施され、航空機も一新されることになった。まず戦闘飛行隊は、長年CVW-5の中核を占めていたVF-51、VF-53がF-4Bを装備するVF-151 Vigilantes、VF-161 Chargersと交代。そして攻撃飛行隊はA-4Fを使用していたVA-22、VA-94、VA-144がA-7Bを装備するVA-56 Champions、VA-93 Blue Blazers、そしてA-6AとKA-6Dを装備するVA-115 Arabsと交代した。写真偵察、電子戦、対潜・救難の任務を担当するVFP-63、VAQ-130、HC-1には変化がなかったが、派遣される分遣隊がそれぞれDet.3、Det.2、Det.8に変更となった。そしてHC-1は使用機がUH-2Cから対潜能力が強化されたSH-3Gに変更となり、これまでのHC-1の救難ミッション用にはHC-7 Det.110のHH-3Aが搭載されるようになった。

年が明けた1971年1月4日、ニクソン大統領は「戦いの終わりが見えた」と発表した。そして1月19日にはラオス、カンボジアにある北ヴェトナムの補給キャンプに対し、米軍機による激しい爆撃が加えられたが。しかし米地上軍の引き上げが進む中、地上では共産軍の攻勢が続き、「サイゴンを決して放棄しない」と繰り返し演説するニクソン大統領の声は、むなしく響くばかりであった。2月8日、南ヴェトナムのグエン・ヴァン・チュウ大統領は、北ヴェトナムからのヴェトコンへの支援物資の流れを断つため、米軍の支援を受け、南ヴェトナム軍をラオスへ侵攻させ、ホー・チ・ミンルートで活動する北ヴェトナム軍を撃破すると宣言する。この作戦「Lan Son 719」と呼ばれる作戦に、南ヴェトナムは3個歩兵師団を投入した。この16,000名の兵士を輸送するため、米軍は大量のヘリコプターで支援した。そして南ヴェトナム軍も果敢に戦い、北ヴェトナム軍をくぎ付けにした。しかし、南ヴェトナム軍、米陸、海、空軍の間でのコミュニケーションがうまくいかず、米軍の航空支援には失敗が続出した。FACコントローラとの調整不備から味方への誤爆が発生することもあり、結局この作戦も4月には終焉を迎えることになる。

一方、戦場からの報道は米国市民を反戦運動に向かわせた。4月19日にはヴェトナム退役兵による反戦集会が全国規模で開催され、またこれとは別に首都ワシントンでも、4月24日に約20万人が参加する大反戦集会が開かれた。

こうした中、改装なったCVA-4 空母ミッドウェイは新しい仲間となったCVW-5を載せて、1971年4月16日にヴェトナム沖を目指し母港アラメダを後にした。そしてヤンキー・ステーションに到着しCV-19 空母ハンコック、CVA-61 空母レンジャー、CVA-63 空母キティー・ホークと合流するが、いずれもミッドウェイと交代でヤンキー・ステーションを去り、6月の初めにCV-34 空母オリスカニーが合流するまでの間、ミッドウェイは唯一の空母として奮闘した。オリスカニー到着後6月5日には休養のため、一旦戦列を離れたが、直ぐにヴェトナム沖にもどりCVW-5とともに作戦に就いた。そして最後にヤンキー・ステーションを離れる10月31日までに、CVW-5機は通産6,000機以上の出撃を達成し、ミッドウェイとCVW-5は11月6日に母港アラメダに帰還した。このヴェトナム展開時の部隊編成を表12-1に示す。


表12-1 1971年4月16日~1971年11月6日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成




ヴェトナムを目指し、太平洋を進むCVW-5と空母ミッドウェイ
出典: US Navy Official Photo Archive (#KN-19524)

またこの年、空軍ではF-100がヴェトナムでの役割を終え、最後の部隊が本国へと引き揚げた。1971年6月26日、南ヴェトナムファン・ラン(Phan Ran)航空基地に展開する35TFWの最後のF-100D/F部隊が運用を停止し、7月30日に米国に向け飛び立った。F-100は1964年に南ヴェトナムとタイに展開して以来、総計360,283回の出撃と243機の損失を記録している。

年が明け1972年1月19日、北ヴェトナムの飛行場偵察に向かうRA-5Cをエスコートする空母コンステレーション搭載のCVW-9に所属するVF-96のF-4Jが、迎撃に上がったMiG-21と遭遇した。このF-4Jを操縦していたのが、後に米海軍中唯一のヴェトナムでのエースとなった、パイロットのRandall H. Cunningham中尉とRIOのWilliam P. Driscoll中尉であった。壮絶な空中戦であったがTop Gunでのトレーニングの成果も加わり、カニンガム中尉とドリスコール中尉のペアは見事、MiG-21をサイドワインダーで葬り去った。またこれは米軍にとって122機目のミグ機撃墜でもあった。

この出来事の直後、1月25日にニクソン大統領は8項目からなるヴェトナム和平計画を提案し、キッシンジャー安全保障担当大統領補佐官がハノイと秘密和平交渉をしていることを明かした。しかし北ヴェトナムはこの提案の受け入れを拒否する。このためニクソン大統領は北ヴェトナムの後ろ盾となっている中国に接近する策に出、2月21日にから1週間突然北京を訪問し、毛沢東主席と周恩来首相と会談したのである。北ヴェトナムへの心理戦である。

しかしながら、北ヴェトナムには妥協の文字はなく、3月30日に南ヴェトナムへの大規模侵攻を開始した。北ヴェトナムのVo Nguyen Giap将軍率いる20,000名の兵が南ヴェトナム攻略のため総力を挙げた戦いである。この北の攻撃に対抗すべく、ニクソン大統領は第7艦隊に対し、非武装地帯周辺に展開する北ヴェトナム軍に対し、航空攻撃と艦砲射撃を命じた。さらに空軍に対し、B-52による北爆とともに、南ヴェトナムに展開する北ヴェトナム軍への報復攻撃を命じた。このため、3月31日には、韓国から第8戦術戦闘航空団(8th TFW)のF-4D飛行隊が南ヴェトナムのダナン(Da Nang)とタイのウボン(Ubon)に展開した。また海軍も急遽4隻の空母を派遣することとなり、その最初の空母キティー・ホーク(CVA-63) が4月3日にヤンキー・ステーションニ到着した。キティー・ホークは、既に展開しているCVA—43 Coral SeaとCVA-19 Hancockに合流し、4月15日にハノイとハイフォン港を爆撃した。米地上軍の引き上げ加速により収斂の方向にあった戦闘の炎が、再び燃え上がり始めたのである。実際、この時点における米地上軍の規模は69,000名のレベルにまで減少していた。
 


主翼下に誘導爆弾GBU-10を搭載し、北ヴェトナムへ向かう8TFW/435TFSのF-4D<BR>
出典: USAF Official Photo Archive

 パリの和平会談が4月27日から再開される一方で、ニクソン大統領は北への攻撃を強化し、ラインバッカーI作戦(The Operation of Linebacker I)を発動したのである。この作戦は空軍機と海軍の艦載機による北ヴェトナムの主要道路、橋梁、製油所への攻撃とともに、主要港湾への機雷の敷設が含まれた。

この北ヴェトナム軍による南ヴェトナムへの侵攻の報を受け、休養中のCVW-5と空母ミッドウェイにも予定より7週間も早い招集がかかり、1972年4月10日、ヴェトナム沖を目指し母港アラメダを出発した。このときのCVW-5 の編成を表12-2に示す。前回の展開時とほとんど変わらず、HC-1のDet.8がDet.2に変化したのみである。

表12-2 1972年4月10日~1973年3月3日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成



ミッドウェイの飛行甲板上での艦載機たち。

右舷後部甲板に並ぶVA-56とVA-93のA-7B(上)


VAW-115のE-2BとVA-115のA-6A(上)


VF-161のF-4B(上)


VF-151のF-4B(上)
出典:http://www.midwaysailor.com/johnnjaa/midway.html

 今回の展開では、CVW-5の戦闘、攻撃部隊に対し、北ヴェトナムからの支援物資の南ヴェトナムへの流入阻止ミッション、及び北ヴェトナム主要港への機雷封鎖ミッションとが与えられた。このためミッドウェイから飛び発ったVA-56、VA-93のA-7BとVA-115のA-6Aは、VF-151、及びVF-161のエスコートを受け、ホー・チ・ミン・ルートに攻撃を加えた。


北ヴェトナムへ向かう途中、VA-93のA-7Bから給油を受けるVF-161のF-4B
出典: US Navy Official Photo Archive

また5月11日には、空母コーラル・シー(CV-43)、空母キティー・ホーク(CVA-63)、そして空母コンステレーション(CV-64)の航空機とともに北ヴェトナムにとって重要港湾である、ハイフォン(Haiphon)をはじめ、タン・ホア(Thanh Hoa)、ドン・ホイ(Dong Hoi)、ヴィン(Vihn)、ホン・ゲイ(Hon Gai)、クァン・ケ(Quang Khe)、及びカム・ファ(Cam Pha)の港に対して機雷散布を行った。

一方この年の5月は、海軍にとって大量のMiG機撃墜の月にもなった。1972年5月10日、ハイドンの操車場攻撃に参加した前述のVF-96のカニンガム、ドリスコール組のF-4Jが5機目となるMiG-17を撃墜し、この二人はエースとなった。さらにこの日、米海軍の戦闘機は総計7機のMiG機を撃墜したのである。そしてCVW-5のVF-161にもMiG機撃墜のチャンスが巡ってきた。5月18日、MiG-17の編隊と遭遇したVF-161の2機のF-4B(NF110 & NF105)は、編隊中の2機のMiG-17と空中戦に入り、両機ともサイドワインダーを発射し、2機のMiG-17を撃墜した。



1972年6月に開催された国防総省でのセレモニーでZumwalt提督と談笑するCunningham、Driscollの両中尉
出典: US Navy Official Photo Archive(USN 1151747)

一方で、北ヴェトナムとの戦闘が新たな段階に入った7月13日、パリでの和平会談が再開された。さらに8月1日には、キッシンジャー大統領補佐官が北ヴェトナムのレ・ドク・ト(Le Duc Tho)特別顧問との秘密会談を再開している。そして地上戦闘のヴェトナム化が進む中、米国の最後の地上戦闘部隊が8月23日にヴェトナムを離れた。地上戦闘部隊の消えた米軍ではあるが、航空兵力は強化され、9月29日には大規模な米軍機による北ヴェトナムの航空基地への攻撃が加えられ、北ヴェトナム空軍機の10%が破壊された。

北ヴェトナムへの攻撃の増加は、自らの被害の増加にもつながった。そんな中、撃墜されたパイロットたちにとってヘリコプター戦闘支援飛行隊の存在は、ありがたかった。8月6日、CVA-60 空母サラトガから北ヴェトナムへの攻撃に参加したVA-105のA-7Aが北ヴェトナムのVinh北西の沿岸から約20マイルの地点でSAMにより撃墜された。このため、空母ミッドウェイに搭載されたHC-1 Det.110のSH-3Gがパイロットの救出に向かった。SH-3は地上からの激しい砲火にも晒されながら、山岳部を這うように飛行し、目的地を目指した。そして撃墜地点付近ではサーチライトで探照しながらパイロットの救出に成功した。HC-1 Det.110は、コンバット・レスキュー・ミッションを通じ1972年末までに合計48回のパイロット救出に成功している。こうした任務は地味ではあるが、命綱の様に多くのパイロットに勇気を与えた。


空母ミッドウェイの側方を飛行するHC-1のSH-3G
出典: http://liverputty.blogspot.com/2008/07/aircraft-of-uss-midway.html

10月に入ると平和への交渉が動き始めた。10月8日には、手詰まり状態にあったキッシンジャーとレ・ドク・トとの外交交渉が、双方の大幅譲歩で合意に至った。合意内容は、米国側は南ヴェトナムにある北ヴェトナムの軍の駐留を認める一方、北ヴェトナム側は、彼らの要求した南ヴェトナムのチュー大統領の排除と南ヴェトナム政府の解散を取り下げるというものであった。10月22日には、キッシンジャーがチュー大統領を訪ね、和平提案について討議した。しかし24日になってチュー大統領は、キッシンジャーの和平提案を公然と非難した。このため、北ヴェトナムは26日にはラジオ・ハノイを通じ、和平提案を公表するとともに、南ヴェトナムとの調整に躓く米国を非難した。

米国は和平への道が拓けたと、10月22日にラインバッカー作戦を停止した。平和に向かう姿勢が世論に受け入れられ、11月2日、ニクソンが大統領選に勝利する。この勢いで米側はキッシンジャーをパリに送り込む。キッシンジャーは、12月13日、チュー大統領の要求を盛り込んだ新たな合意内容を持って北ヴェトナムのレ・ドク・トとの和平交渉に臨むが、米側の思惑は見事に外れ、交渉は再び暗礁に乗り上げた。

和平交渉の行き詰まりに対して米国側は再び力で持って応じた。1972年12月18日に開始されたラインバッカーII作戦は、「クリスマス爆撃」とも呼ばれ、B-52を大量投入した空前絶後の北ヴェトナム爆撃作戦となった。この爆撃による北ヴェトナムの被害は一般市民にも広がった。海軍の攻撃部隊は、B-52に先行して北ヴェトナムの航空基地に対して制圧攻撃を加える作戦に駆り出され、また海軍のEA-6Bや海兵隊のEA-6Aの電子戦部隊は、要撃レーダサイトやSAMサイトへの電子妨害任務に就いた。このラインバッカーII作戦は12月29日まで続けられ、ハノイとハイフォンに対し、延べ100,000個の爆弾が投下された。この間北ヴェトナムも1,200発のSAMを発射しており、その餌食になったB-52の数も15機に及んだ。さらに北ヴェトナムの発表によるとこの爆撃で死亡した北ヴェトナム市民は1,328名に上ったそうである。この激しい爆撃の結果、北ヴェトナムは和平テーブルの席に戻ることとなり、1973年1月8日、和平交渉がパリで再開された。
 


ラインバッカーII作戦で、北ヴェトナムの主要都市に爆弾を降らすB-52D
出典: USAF Official Photo Archive

 一方、空母ミッドウェイとCVW-5であるが、10月29日にVA-115のA-6Aが着艦時に飛行甲板に激突し、駐機中の航空機の群れに突っ込むという事故が発生した。これにより8機の航空機が破壊され、また5名のクルーが死亡、23名が負傷するという大事故となった。これでミッドウェイとCVW-5は一時戦列を離れるが、その後復帰し、1073年1月12日にはVF-161のLt. Victor T. KovaleskiとLTJG James A. Wiseの操縦するF-4B(153045)が、ヴェトナム戦争で最後となるミグ機(MiG-17)をAIM-9で撃墜した。

その11日後の1973年1月23日、キッシンジャー大統領補佐官と北ヴェトナムのレ・ドク・ト特別顧問との間で行われていたパリでの和平交渉がようやく合意に至った。そして和平協定案の仮調印が交わされるとともに、停戦の発表が行われた。あっけない幕切れとも言える。この報を受け、ミッドウェイとCVW-5は帰国への途に就く。母港アラメダに戻ったミッドウェイとCVW-5に対し、今回の戦闘(1972年4月30日~1973年1月12日)での活躍に対し、Presidential Unit Citation が授与された。CVW-5はこの間、戦闘で5機のミグ機を撃墜したものの、戦闘で15機、故障で5機を失っている。

ヴェトナム和平協定は、1月27日に米国、南ヴェトナム、北ヴェトナム、そして南ヴェトナム共和国臨時革命政府の代表者間で交わされたが、ヴェトナム戦争が完全に終結するには、いま少しの時間を必要とした。

(この章終わり)

本章に関連する機体の塗装
 (出典:WINGS PALLETE http://wp.scn.ru/en/ )但し、F-4Bを除く


McDonnell F-4B Phantom II(MiG Killer) of VF-161 in 1972
(出展:http://www.midwaysailor.com/midway1970/1970flightops.html)





Vought A-7B of VA-93


© M. Trim, ©Terry Hadler & ©D. Palmer
‘Grumman A-6A/E Intruder; EA-6A; EA-6B Prowler’ by Kurt H. Miska, Profile Publication Ltd.

KA-6D of VA-115 in 1972



© Mark Waki, The Aerospace Art of Mark Waki

McDonnell F-4J Phantom II(MiG Killer) of VF-96 in 1972
(Randall H. Cunningham中尉とWilliam P. Driscoll中尉の乗機)



© Stephen Mudgett, http://www.stephenmudgett.com/

EKA-3B of VQ-132 in 1972



© Thomas A. Tullis, ‘Bent and Battered Rotors’ Vol.3
By Wayne Mutza, A Squadron Signal Publications

SH-3A of HC-1 in 1972

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