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CARRIER AIR WING FIVE

CVW-5

Part13 Rev.B                                 Photo. U.S. NAVY

by Kiyoshi Iwama
(Rev.B改訂版掲載 2012.01.08)
Tip of the Sword” 、CVW-5のハンガーに描かれた彼らのスローガンである。空母を守る剣の先は、彼ら自身であり、「剣の先の如く鋭くあれ」と戒めている。またそれは遠く母国を離れ、太平洋の西岸に置かれた剣の先をも意味するように思われる。海外を拠点とする米海軍唯一の空母航空団としてCVW-5が厚木基地に本拠地を置いて、35年が過ぎた。その間、飛行隊の編成や使用する航空機も大きく変わり、その年月の長さを感じさせる。もう少しで在日40年を迎えるが、そのとき彼らは、その記念日を岩国基地で迎える。
我々飛行機ファンを大いに楽しませてくれたCVW-5であるが、厚木基地での活動も残り少なくなった。これを機会に、CVW-5のこれまでを振り返ってみたい。

これまでのあらすじ

資料記事
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第12話 ヴェトナム戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第11話 ヴェトナム戦争(中編-3)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第10話 ヴェトナム戦争(中編-2)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第9話 ヴェトナム戦争(中編-1)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第8話 ヴェトナム戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第7話 東西冷戦、朝鮮戦争後
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 第6話 朝鮮戦争(後編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第5話)朝鮮戦争(中編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第4話)朝鮮戦争(前編)
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第3話)朝鮮戦争勃発
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5 (第2話)ジェット時代の夜明け
CARRIER AIR WING FIVE CVW-5(第1話)誕生

第13話 日本へ

1973年1月23日の停戦合意の発表の後、2月12日に北ヴェトナムに捕らえられていた米軍の捕虜が釈放され、その第1陣がフィリピンに到着した。その後も次々と解放された捕虜の数は、3月29日までに556名にのぼった。しかしながら多数の行方不明者については当時としては探索の手段も無く、放置されることになった。こうして米国にとっての屈辱の闘いは、最終章を迎える。

一方ヴェトナム戦争は日本へも大きな影響を与えた。米軍の兵站基地としての日本には、朝鮮動乱時と同様に戦争特需を生み出し、経済効果を与えた。が、その一方で国内でも70年の日米安保条約改定反対運動と共鳴するようにヴェトナム反戦運動が高まり、在日米軍に対する風向きも強くなっていった。そんななか沖縄返還を巡る日米政府間交渉が進められ、1972年5月15日に返還が実現した。この返還は、在沖米軍基地は維持したまま、日本の掲げる非核三原則に基づき、「核抜き、本土並み」の返還を目指した。沖縄からの核兵器の撤去に対し、米海軍は核兵器の搭載・運用が可能な空母ミッドウェイの横須賀母港化を要望した。こうした海軍の要望は、1972年8月31日にハワイで行われた日米協議を通じ初めて日本の外務省に伝えられた。こうした核兵器持ち込みに関する協議では、核兵器搭載艦の日本寄港については事前通告などの手順を経て可能とすると、「非核三原則」の拡大解釈で日本側が譲歩する形となったが、空母の母港化となると別であった。このため日米協議が重ねられ、結局3年間の限定期間の母港化とし、海上での空母は我が国領海内においても米国領土と見なすことで日本政府の許諾の必要性をなくし、修理のためドック入りする際のみ、事前に日本の領海外にて核兵器を補給艦に移送することで日米政府間の合意がなされた。

こうした背景の下、空母ミッドウェイは日本の横須賀を母港に、そしてミッドウェイに搭載されるCVW-5は横須賀に近い米海軍厚木航空施設(NAF Atsugi)をホームベースとすることが決まり、1973年7月1日付で正式に異動が発令された。空母の海外母港化、ならびに空母航空団の海外ホームベース化は、ともに米海軍創設以来の出来事である。この決定は、予算削減を要求されている海軍にとっても望ましいものであった。何故なら太平洋艦隊の空母の極東展開サイクルを減じることができ、形の上では空母3隻体制を維持することが可能となったからである。そして空母ミッドウェイとCVW-5は、1973年9月11日、住み慣れたカリフォルニアのAlameda港を後にし、一路日本を目指した。



1973年9月11日、CVW-5を載せカリフォルニアを発つミッドウェイ
出展:http://www.midwaysailor.com/midwayphotos/index.html

日本に向かうCVW-5の装備機には変化があり、戦闘飛行隊のVF-151とVF-161はF-4BからF-4Nにアップグレードされた。F-4Nは実戦配備以来10年を経たF-4Bの能力向型で、外形的には水平尾翼がF-4Jと同じ前縁スロット付きのものに換えられただけであったが、アビオニクスの能力アップによりF-4Jに匹敵する性能を得ていた。(後にはインテーク横にAN/ALQ-126 ECMアンテナが付き、ECM能力の向上も図られた)しかし、A-7Bを装備していた攻撃飛行隊のVA-56とVA-93は、装備機をA-7Aにデグレードされてしまった。横須賀移動時点での編成の詳細を表13-1に示す。

表13-1 1973年9月11日~1973年10月5日の横須賀移動時のCVW-5の編成



VA-93のA-7A “Corsair II”
出展:http://www.midwaysailor.com/midwayphotos/index.html

CVW-5の航空機は過去にも厚木基地へ飛来していたが、これはあくまでビジターとしての飛来であったが、今後はホームベースとしてここで過ごすことになった。横須賀入港の1週間前の9月27日頃から厚木にCVW-5の所属機が飛来を始めた。そして1973年10月5日、艦載機を飛行甲板の両舷に並べ、千葉県館山沖から東京湾に入り横須賀を目指す空母ミッドウェイの姿が捕らえられた。



千葉県館山市の野島崎南南東90キロ付近を横須賀へと航行する空母ミッドウェイ
Photo:毎日新聞社

 一方ミッドウェイが入港してくる横須賀では空母の母港化に反対する左翼系の団体や学生の一団が入港反対のシュプレヒコールを叫んでいた。空母ミッドウェイは近づくに連れその輪郭を明確にし、やがてその巨大な姿を露わにした。そして警官隊が厳重に警戒する中、出迎えに詰めかけた約350名の乗組員の家族や、在日米海軍関係者に見守られながら、ミッドウェイはタグボートに押されて静かに6号ドックに入渠した。



CVW-5の艦載機を載せ、乗員が甲板に整列して横須賀に入港するCVA-41空母ミッドウェイ
出展:Naval Aviation News December 1973

CVW-5が厚木に到着してほどなくして、VA-115のA-6A 3機が厚木を離れ、本国に向かった。そしてその後10日ほど経って、今度は帰還した3機の空席を埋める形でCVA-43 空母コーラル・シーに搭載されていたCVW-15のVA-95からA-6Bが3機、厚木基地へ飛来した。A-6BはAGM-78 Standard ARMとAGM-45 Shrike ARMの運用能力を有し、単独でSAMサイトを攻撃することが可能で、VA-115の戦闘能力が強化された。

一方、ヴェトナムでのOperation Linebacker I & IIをサポートするためフィリピンのNAS Cubi Pointに展開していた海兵第1混成飛行隊(VMCJ-1)の電子戦機、EA-6Aもようやく海兵隊岩国航空基地(MCAS Iwakuni)へ引き揚げてきた。そして、第1海兵航空団(1st MAW)と空母ミッドウェイに対し電子戦支援をすることになり、10月に入ると、その一部が第101分遣隊(Det. 101)としてCVW-5に派遣され、ミッドウェイに展開を始めた。



A-6Aイントルーダを電子戦機に改造したVMCJ-1所属のEA-6A
出展:http://www.mcara.us/VMCJ-1.htm

ミッドウェイとCVW-5は、少しの休養の後、訓練のため横須賀を離れた。この時沖縄の近海でVA-56のA-7AとVMCJ-1のEA-6Aが空中で接触し墜落、さらに救助に向かうためミッドウェイの艦首から飛び発とうとしたHC-1のSH-3Gが墜落、両事故併せて6名の乗員が亡くなるという悲劇が起こる。そしてこの訓練から帰還した後、ミッドウェイとCVW-5は、再びヴェトナム沖へと展開することになり、11月26日にそれぞれ横須賀と厚木を出発した。この展開期間は短く、年の瀬の12月22日にはミッドウェイは横須賀に帰港し、CVW-5の艦載機は厚木基地へとフライインした。この時の編成を表13-2に示す。

表13-2 1973年11月26日~1973年12月22日の横須賀移動時のCVW-5の編成

ここで少し厚木基地のことを述べておこう。CVW-5のホームベースとなっている厚木基地は、1971年6月30日をもって管制権も含め、大半の施設が日本へ返還され、日米で共同使用することとなった。このため1971年7月1日付で、米海軍厚木航空基地(NAS Atsugi)は米海軍厚木航空施設(NAF Atsugi)へと変更され、一方で海上自衛隊厚木航空基地という名称をもつようになった。海上自衛隊の基地として発足した当時は、厚木航空分遣隊を設置しただけであったが、2年後の1973年12月24日には千葉県の下総基地から第4航空群が移駐をはじめ、翌25日には同じく下総基地より海上自衛隊航空集団司令部が移駐し、海上自衛隊航空部隊の要ともなった。こうして、CVW-5のホームベース化と海自航空集団司令部の移駐とで、この年から厚木基地は、多くの常駐部隊を抱えることになった。

さて東南アジアの状況であるが、米地上軍はヴェトナムから引き揚げたものの、共産軍のカンボジアやラオスへの侵攻を防ぐため、空軍はB-52とKC-135をタイのウタパオ(U-Tapao)基地に、またF-4、A-7、F-111、AC-130といった機体を同じくタイのコラート(Korat)基地に配置していた。



KC-135から給油を受ける429TFS/347TFWのF-111A. 
Takhil 基地当時の写真で、この後Korat 基地へ移動
Photo: USAF Historical Research Agency

また海軍も相変わらず空母機動部隊をヤンキー・ステーションに留めていた。1974年に入っても空母3隻体制を維持し、空母ミッドウェイとCVW-5もその一翼を担った。このため、ミッドウェイとCVW-5は1974年1月29日にヤンキー・ステーションへと横須賀を発ち、3月6日に帰還するまでヴェトナム沖と南シナ海で作戦に参加した。この時の展開ではVMCJ-1DET.101のEA-6Aに代って、グアム島のアガナに司令部を置くVQ-1からEA-3Bが派遣されている。編成の詳細を表13-3に示す。

表13-3 1974年1月29日~1974年3月6日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成



偵察飛行に現れたソ連のTu-95 Bear DをインターセプトするVF-151のF-4N
出展:US Defense Visual Information System photo DN-SC-85-06070

一方共産軍の動きであるが、1973年の和平協定が結ばれた直後は北ヴェトナムも南ヴェトナムへの侵攻を控えていたが、その活動は時間とともに活発化した。1973年12月3日にはサイゴン近郊の燃料貯蔵施設をヴェトコンが攻撃、これを破壊。そして年の変わった1974年1月には北ヴェトナム軍がカンボジアの首都、プノンペンに迫った。さらに勢いを増した北ヴェトナム軍は南ヴェトナムの北部を占拠し、南部へと兵を進めた。
5月になると米国ではウォータゲート事件の責任追及から、議会がニクソン大統領の弾劾手続きを始めた。その結果1974年8月9日、ニクソン大統領は責任を取り、大統領を辞任した。ヴェトナム停戦、ソ連とのデタント達成、中国との国交正常化と外交面では成果をあげたが、もはや米国民の目は国内問題にあり、不正問題にフォーカスしていた。そして後任の第38代アメリカ合衆国大統領には、ジェラルド R. フォードが就任する。9月に入って議会は南ヴェトナムへの支援額を7億ドルにまで、大幅に削減することを決定。和平協定締結に反対の意を示した南ヴェトナム政府に、あらゆる支援を惜しまないと約束したニクソン政権であったが、新しい政権は立場を変えた。この決定によって南ヴェトナム軍への軍事支援は大幅に後退し、南ヴェトナム軍の士気は落下の一途となった。



CVW-5の艦載機を載せ西太平洋を北上する空母ミッドウェイ
出展:U.S. Navy Official Photo Archive # NH97633

それでも海軍も空軍も東南アジアの共産化を防ぐため、未だインドシナと南シナ海に展開していた。空母ミッドウェイとCVW-5も、この年はさらに10月18日に横須賀を出港し、約2ヶ月のクルーズに出発し、12月20日に帰還している。この時のCVW-5には、VQ-1のEA-3Bに加え、海兵隊の岩国基地からVMCJ-1 DET.101としてEA-6AとRF-4Bとが派遣されてきた。RF-4Bは、VFP-63のRF-8Gに替る新型の写真偵察機であった。このときのCVW-5の編成を表13-4に示す。

表13-4 1974年10月18日~1974年12月20日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成

ミッドウェイとCVW-5が日本に帰りつく前の12月13日に、北ヴェトナム軍はパリの平和協定を破り、南ヴェトナムのフォク・ロン(Phuoc Long)省攻め入り、数週間の南ヴェトナム軍との激しい銃撃戦の後、首都のフォク・ビン(Phuoc Binh)が北ヴェトナム軍の手に落ちた。フォード大統領は、南ヴェトナム支援のため3億ドルの援助要請を議会に諮ったが、その要請は拒否された。もはや米国は南ヴェトナムを放棄する意思表示をしたに等しかった。1975年1月21日にはフォード大統領は記者会見にて、「米国は戦争に戻ることはない」との見解を示す。

北ヴェトナム軍の南ヴェトナムへの侵攻が活発化してきたため、ミッドウェイとCVW-5はクリスマス休暇が終わると早々に日本を後にし、ヴェトナム海域へと向かった。この時のCVW-5の編成は表13-5に示す通りである。

表13-5 1975年1月13日~1975年2月18日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成

このとき南シナ海には空母コーラル・シー(CVA-43)とエンタープライズ(CVNA-65)が展開していた。空母エンタープライズには、新鋭の戦闘機F-14Aを擁するVF-1とVF-2の飛行隊が搭載されていた。勿論F-14Aのヴェトナム参戦はこれが初めてのことである。



空母エンタープライズの飛行甲板に並んだVF-1とVF-2のF-14A
出展:http://www.network54.com/Forum/615009/thread/1252954535/enterprise+carrier+wing

米政府が南ヴェトナムを見放したのを見て、北ヴェトナム政府は一挙に南ヴェトナムへの攻勢を強めていった。3月10日には最後の攻勢が開始され、中央高地に位置するバン・メ・トート(Ban Me Thuot)を25,000人の北ヴェトナム軍が攻撃し、3月14日にこれを陥落した。バン・メ・トートには南ヴェトナム軍の航空基地があったが、多くの航空機が共産軍の手に渡った。この結果南ヴェトナムのグエン・バン・チュー大統領は中部高地を放棄すると決定。このため、混乱した市民や兵士など大量の脱出者が発生する。もはや南ヴェトナム軍には反攻の士気も残っておらず、その後主要都市が次々と北ヴェトナム軍の手に落ち、3月26日にはチュー・ライ(Chu Lai)が陥落、3月30日にはダ・ナン(Da Nang)が落ちた。さらに4月9日には、サイゴンから38マイル離れたクワン・ロク(Xuan Loc)に北ヴェトナム軍が接近していた。

こうした情勢から南ヴェトナムの陥落が近いと知った民間人の多くが、脱出のためエアーラインに詰めかけ、そこら中で混乱が起こった。在南ヴェトナム米国人を安全に国外へ脱出させるため、また南ヴェトナム要人や市民の脱出を支援するための作戦が計画され”Operation Frequent Wind”と名付けられた。また脱出作戦には、カンボジアからの脱出を支援するための作戦”Operation Eagle Pull”もあった。こうした脱出作戦支援のため、2月18日に日本に戻ったばかりの空母ミッドウェイにも出動の命令が下り、ミッドウェイはCVW-5を載せ、3月31日に横須賀を発った。

現地では既に脱出作戦が進められ、空軍はサイゴン近郊のタン・ソン・ニュット(Tan Son Nhut)飛行場からC-130とC-141が、多くの米国人や南ヴェトナム人、そして軍需物資などを運び出した。一方、海軍は海軍や海兵隊のヘリコプターを使い、サイゴンから沖合の艦艇へ人員を輸送する作戦を進めていた。ヤンキー・ステーションに到着したミッドウェイは、4月20日にCVW-5の固定翼機を全機、フィリピンのキュービー・ポイント海軍航空基地(NAS Cubi Point)に向かわせ、代りに飛来した空軍の第40航空宇宙救難回収飛行隊(40th ARRS)のHH-53Cを10機収納し、救援ミッションに向かった。



サイゴンからの脱出者救済用に準備された米空軍40th ARRSのHH-53C
出展:http://www.midwaysailor.com/midway1970/frequentwind.html

1975年4月29日、迫りくる北ヴェトナム軍から逃げ、サイゴンを脱出する米国人と南ヴェトナムの難民を救出するため、40 ARRSのHH-53Cはサイゴンと空母ミッドウェイとの間をピストン輸送した。10機による飛行は40ソーティを越え、トータルで3,073名の米国人と南ヴェトナム人を助け出した。その間、エンタープライズや、コーラル・シー、ハンコックの艦載機がHH-53Cの援護にあたったが、CVW-5の機体は、キュービー・ポイントにあり、残念ながらこのミッションには加わることができなかった。しかし、ミッドウェイに残されていたHC-1 Det.2のSH-3G対潜ヘリコプターは、ミッドウェイに運び込まれた脱出者を、これまたピストン輸送で他の艦船に空輸した。この作戦によって多くの人命が救済された。5月29日に日本に戻ったミッドウェイとCVW-5は、その貢献に対し、「Navy Unit Commendation」と「The Humanitarian Service Medal」を受賞している。この時のCVW-5の編成は表13-6に示す通り、前回展開時と同じである。



ミッドウェイに救助されてきた、南ヴェトナムの脱出者。
出展:http://www.midwaysailor.com/midway1970/frequentwind.html

表13-6 1975年3月31日~1975年5月29日の西太平洋/ヴェトナム展開時のCVW-5の編成

1975年4月30日朝、前日就任したばかりのズオン・バン・ミン南ヴェトナム大統領が、大統領府にて無条件降伏を宣言し、戦争の終結をラジオ、テレビ通じ、国民に伝えた。そしてその数時間後、北ヴェトナム軍のT-54ソ連製戦車が、大統領府のゲートを押しつぶして侵入してきた。ズオン・バン・ミン大統領をはじめ、残っていた南ヴェトナム政府の要人はここで拘束され、長く続いた戦争に終止符がうたれた。



ミッドウェイに救助されてきた、南ヴェトナムの脱出者。
出展:http://www.midwaysailor.com/midway1970/frequentwind.html

サイゴン脱出者の救出作戦である”Operation Frequent Wind”の終了後、空母ミッドウェイとCVW-5は南ヴェトナムへ供与した米国機回収のため、タイへ向かうこととなった。途中ミッドウェイはフィリッピンのキュービー・ポイントへ艦載機を降ろし、タイへ直行した。タイでは、100機以上の米国機を収容し、今度はグアムへと引き返し、そこでこれらの航空機を降ろし、再びフィリピンのスビック・ベイへと向かい、CVW-5と合流した。そしてそこで若干の休養をとり、今度はCVW-5とともにインド洋へ展開し、空母キティ・ホーク(CVA-63)と空母コンステレーション(CVA-64)とともにExercise Midlink-‘75に参加した。Midlink-‘75は日本の海上自衛隊、台湾、パキスタン、イランの海軍が参加しての合同演習で、模擬戦闘を通じ実戦さながらの訓練を実施した。演習終了後の11月25日、CVW-5の航空機がミッドウェイへの着艦に失敗し、ランプに衝突、コースを外れバリケードに突っ込み、さらに駐機中の機体と衝突・炎上するという事故が発生した。幸いにして2名の負傷者が出ただけにとどまり、ミッドウェイとCVW-5は年末をホームベースで迎えるため、インド洋を離れ日本への帰路についた。この時の編成を表13-7に示すが、海兵隊からの派遣部隊に若干の変更が生じている。これは海兵隊の電子戦、戦術写真偵察を任務としていたVMCJ-1~-3の部隊を電子戦飛行隊(VMAQ)と写真偵察飛行隊(VMFP)とに再編したことによる。これにより電子戦支援にはEA-6Aを装備するVMAQ-2 Det.Aが、そして写真偵察支援にはRF-4Bを装備するVMFP-3 Det.1がCVW-5に派遣されてきたのである。



米軍機を載せグアムへ向かう空母ミッドウェイ。南ヴェトナムへ供与したF-5,A-37,UH-1等が甲板に見える。
出展:http://www.midwaysailor.com/midway1970/frequentwind.html

表13-7 1975年10月4日~1975年12月19日の西太平洋/インド洋展開時のCVW-5の編成


(この章終わり)

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